7.1 「吾妻鏡」編纂の背景 |
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1302年の幕府要人五味文彦氏の著書ではないが、1302年(乾元元)の幕府要人を細川重男 『鎌倉政権得宗専制論』 p272 からあげてみる。この年は二階堂行貞が返り咲いた年である。それを得宗家と庶流に分け、嘉元の乱直前の寄合衆(推定)と その後連署や執権となったことを書き加えてみると以下のようになる。 得宗: 北条貞時 (寄合主催者)
五味文彦氏は1300年頃の寄合衆のメンバーが『金沢文庫文書』によって知られというが、これは嘉元の乱後の1309年(延慶2)の分だと思う。『吾妻鏡』編纂時期の範囲よりも5年ほど後にはなるので、ここでは『吾妻鏡』編集年のタイムリミット?と嘉元の乱を意識した。 『吾妻鏡』に見る「家」の形成北条庶流では、『吾妻鏡』にその家が特記されている者は以下の通りである。
北条政村の直系、大仏北条氏が2名づつ上記表に登場し、また北条時房の家の大仏北条の2兄弟の父、大仏北条宣時は貞時が執権を引退するまで連署(次席執権)であったし、また北条時村はこのとき連署である。この二家がこの時はもっとも勢力が強く、家格という点ではそれに極楽寺流の赤橋、普音寺、そして金沢家の五家がこの当時の得宗家を支える北条庶流のトップクラスということになる。 名越北条氏は本来は反得宗家という点では一番の名門であったが、それだけに二月騒動 では祖父北条時章がで時宗に殺されている。直後に誤りであったとされて、その子北条公時は1273年(文永10)に39歳で評定衆とはなるが、抑圧されて家格はそれほど高くはなかったかに思う。北条公時は1295年(永仁3)に寄合衆となっているがそのとき既に61歳でその年に没している。 京の貴族で言えば六位の侍品の下級官人が人生の終わりになってやっと年給で叙爵に預かったというパターンと何か似ている。北条時家は生没不詳だが、父の死後引付衆となり最後は引付頭人止まりであった。それを辞したのは『吾妻鏡』編纂年の最後と見なされる1304年(嘉元2)である。 ここに上がった庶流で顕彰記事も出産記事も無いのは赤橋の北条久時 と、名越の北条時家のみである。赤橋家は久時の祖父北条長時以来、10代で叙爵し、20代で引付衆を経ることなく直に評定衆に就任するなど得宗家に次ぐ家格の高さを示していた。ところが出産記事も、ことさらな顕彰記事も無い。 しかし詳細に見ていくと、赤橋久時の父赤橋義宗は1277年(健治2)に評定衆になって僅か2ヶ月で没している。そのとき嫡男久時はまだ5歳で、家格の高さから1301年より30歳で引付衆頭人となっているが、 久時が寄合衆となったのは1304年(嘉元2)3月6日、33歳のときとされる。従ってちょうど『吾妻鏡』の編纂時期とみられる頃には赤橋家は寄合衆には加わっておらず、あるいは赤橋家の事実上の当主不在期間が長かった為、影響力としてはハンディを回復出来ていなかった、それが反映されているのだとしたら、これは例外ではなく逆に『吾妻鏡』の編纂は1302年前後、1304年までの間であることの傍証とならないか。 では何故赤橋家庶流の普音寺家北条時兼の出産記事があるのかということだが、あるいは出産した母が北条政村の娘であることが影響しているのかもしれない。こうしてみると、北条政村の家に伝わる記録が相当『吾妻鏡』に反映されているのではとも推測される。 1309年(延慶2)の寄合衆には、これに加えて外様では安達時顕,、と言っても安達氏は時宗の代より御家人層の代表というより、得宗家外戚としての立場の方が強かろう。その祖・藤九郎盛長は、挙兵前から頼朝に付き添っているのは知っての通り。 文筆の家では、登場回数も多く、顕彰記事もある大江広元の子孫の長井宗秀。ベースとなる記録にも顕彰記事にも多い三善氏の大田時連。が居た。得宗被官では顕彰記事のある平盛綱の子孫の長崎高綱が。そして尾藤時綱らがいる。長崎高綱には、その祖とされる平盛綱の顕彰記事、そして平盛綱の筆録の利用が。尾藤時綱の祖についても、北条氏家令(被官)の最初に登場する。つまり1300年頃の寄合衆のメンバー、北条庶流、文筆の家、得宗被官の中のそれぞれ家格の高い者達の家の形成が、『吾妻鏡』の中にきちんと織り込まれていることが解る。 編纂年の時代背景1300年の前後数年がどういう時代であったかというと、既に見てきたとおり9代執権北条貞時の時代である。この時代は禅宗寺院での文化的な華やかさとは裏腹に、古き良き御家人時代が終わりを告げるいわゆる「得宗専制」の時代であり、そこからその後1333年の鎌倉幕府崩壊へと進んでゆく。 1284年(弘安7)4月北条時宗が34歳の若さで病死。嫡男貞時はは今で言えば中学2年生になったばかりの年頃である。当然政権のトップとしての実務をこなせる歳ではない。それでも体制を維持出来るように、それまでは執権の私的な諮問機関に過ぎなかった外戚と得宗被官、そして幕府の事務官僚のトップによる「寄合」が得宗家権力を代行する最高政策決定機関となる。 尚史料上、「寄合衆」という名が現れるのは1289年(正応2)の北条時村の寄合衆補任の記録である。 1285年(弘安8)11月得宗家執事(内管領)平頼綱と有力御家人安達泰盛との権力闘争が霜月騒動となって安達一族が滅ぶ。 1293年(永仁元)4月今度は執権・北条貞時自身がその平頼綱を討つ(平禅門の乱 )。 この平禅門の乱は平頼綱が引き起こした霜月騒動の否定であり、翌年の1294年(永仁2)6月29日の幕府追加法643条では「弘安合戦(霜月騒動)与党人事」は賞罰ともに取り消すとあり、また7月2日の追加法647条では時宗の成敗に対する不易法(絶対なものとして再審査はしない)を改めて再発布する。これらは時宗政権の時代への回帰宣言と見てよいだろうと細川重男氏は述べる。(『鎌倉政権得宗専制論』p268 ) 安達氏や金沢北条顕時が復権を果たし、霜月騒動直後に罷免された大田時連が問注所執事に返り咲き、時連罷免により問注所執事となっていた摂津親致(中原師連の子)は問注所執事は罷免されたが、それ以前からの評定衆の席はそのままである。返り咲いた大田時連は先に見た通り『吾妻鏡』の編纂者と見なされている。しかしそれとは逆に、政所執事は霜月騒動以降に二階堂行忠の死により孫の二階堂行貞に継がれていたが、二階堂諸流の中では異例の行村系(出羽)の行藤が政所執事となる。内管領の人事も迷走を続ける。 1295年(永仁3)6月、太田時連の「永仁三年記」には寄合の出席者として、北条貞時(執権)、大仏北条宣時(連署)、北条時村、名越北条公時、長井宗秀(大江)、二階堂行藤、矢野倫景(三善)の名が見え、それに太田時連(三善)自身を加えたものがこの時の寄合衆メンバーであろう。執権時貞を北条庶流の名門と幕府の実務官僚らが取り囲んで政策決定を行っていたことが解る。得宗被官は平禅門の乱によって後退し、外戚の安達氏もまだ霜月騒動の痛手から立ち直るには至っていない。 1297年(永仁5)永仁の徳政令(関東御徳政)を発布がある。これは、元寇による膨大な軍費の出費などで苦しむ中小御家人を救済するためと理解されてきたが、現在ではむしろ御家人所領の質入れ、売買の禁止、それによる幕府の基盤である御家人体制の維持に力点があったと理解されている。(岩波講座『日本通史』巻8 通史 村井章介 p31) 正安3年(1301年)執権職を従兄弟の北条師時に譲って引退したが、政治の実権はなおも握り続けた。連署に北条時村が就任。 1302年(乾元元)大田時連とは逆に1293年(永仁元)10月一次罷免されていた二階堂行貞が政所執事に返り咲く。二階堂行貞は先に見た通り大田時連とともに『吾妻鏡』の編纂者と見なされている。このとき、越訴頭人は大江氏の長井宗秀、問注所執事は三善氏の大田時連のままである。金沢北条貞顕はこの年六波羅探題南方となって赴任した。『吾妻鏡』編纂に携わったと疑われる容疑者(?)4名が幕府の要職に揃った年である。北条時村を含めれば5人か。 1305年(嘉元3)4月、嘉元の乱4月23日、北条貞時の従兄弟、北条一門で唯一得宗家執事となり、「内執権」と称されていた北条宗方が、当時連署であった北条時村の屋敷を襲い殺害。その12日後、宗方に対して北条宗宣らによる追討が行われる。かつては『保暦間記』の同事件の記述により、野心を抱いた北条宗方が引き起こしたものされるが、その解釈は後付のもので如何にも唐突であり、北条一門の暗闘の真相は不明である。しかしつぶさに見ていくと、独裁政治と云われる得宗家内部は決して安定したものではなかったことが覗える。 詳細は吾妻鏡の周辺・嘉元の乱に譲るが、要するに北条貞時と、北条時村をその長老とする勢力、即ち得宗家と、それまでそれを支えていた北条氏庶流の抗争、あるいは得宗家北条貞時が、更に自己の権力を強化しようとして固まりつつあった幕府の家職をも退けようとして、その代表たる北条時村を殺害したが、北条氏庶流の猛反発によって挫折したと考えれば全ては筋が通る。このことを詳細に論じたのは細川重男氏の『鎌倉政権得宗専制論』である。 1308年(延慶元)8月 平政連諫草御内人の平政連が、貞時を諌めるため提出した「平政連諫草(いさめぐさ)」には「御出家後の今は、漸く政要に疎し」、更には「早々と連日の酒宴を相止め」と、政務を放りだし、酒に溺れていた様が覗える。(『鎌倉北条氏の興亡』 p189) 応長元年(1311)、貞時死去享年40歳。跡継の四男・高時(当時9歳)を案じ、長崎円喜と安達時顕の2人に後事を託す。 |
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