付1.1 吾妻鏡の周辺・嘉元の乱 |
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<付論>
1305年(嘉元3)4月、嘉元の乱「北条宗方の乱」、「嘉元三年の政変」とも言う。 4月22日、既に執権職を退きながらも実権を握っていた北条貞時の鎌倉館(現在の宝戒寺周辺)で火災が起こり焼失する。 その翌日の23日深夜、貞時の「仰せ」とする得宗被官、御家人の一団が葛西ヶ谷(宝戒寺の東、東勝寺橋の先)にあった連署北条時村の屋敷を襲い時村ら50余人を殺害。孫の煕時はかろうじて難を逃れた。『保暦間記』では「仰ト号シテ夜討ニシタリケル」。 『鎌倉年代記裏書』では「左京権大夫時村朝臣誤りて誅されおわんぬ」と。そして時村亭一帯は出火により消失した。 10日後の5月2日、時村討手のおもだった者11名が首を刎ねらる。(得宗被官、御家人クラス、他1名逐電。ところがもう一人助かった者が居る。) 更に2日後の5月4日、北条庶流の筆頭となった引付衆一番頭人大佛宗宣らが貞時の従兄弟で得宗家執事北条宗方を追討、二階堂大路薬師堂谷口(現在の鎌倉宮の左側あたり)にあった宗方の屋敷には火をかけられ宗方の多くの郎等が戦死した。 かつては『保暦間記』の記述により、野心を抱いた北条宗方が引き起こしたものとされたが、その解釈は南北朝時代のもので、後述する『実躬卿記』の5月8日条に、「凡珍事々」とある通り、暗闘の真相は不明である。しかし得宗専制期と云われるこの時代、北条氏の内部は決して安定したものではなかったことが覗える。 京にもたらされた情報これを京側の当時の記録を見てゆく。 鎌倉からの早馬はが27日に到着する。京の朝廷、及び六波羅探題への第一報では
と、「時村が誅された」である。執権に次ぐ連書を「誅す」のは北条貞時以外にはあり得ない。謀反人により殺されたのではない。 金沢文庫に残る5月16日の「倉栖兼雄書状」には、その早馬のあと、「誅された」時村の娘婿(入来院家「平家系図」)でもあった金澤貞顕が探題であった六波羅探題南方の戦慄と動揺が生々しく書かれている。
30年前に似たような事件があった。1272年(文永9年)2月11日に鎌倉で北条時宗によって名越時章・教時兄弟が誅殺されたあと、15日には京都でやはり六波羅探題南方であった北条時宗の庶兄・北条時輔が誅殺された事件(二月騒動)である。その記憶が蘇ったのだろう。「御教書」とあるので、この早馬を走らせ「左京大夫時村朝臣・・・被誅事」と伝えさせたのは執権・北条師時ということになる。 その翌月、5月7日の夜の子の剋(午前0時頃)、鎌倉からの飛脚が執権・師時 の「関東御教書」が届ける。その内容は、細川重男氏の読み下しによると、
つまり北条宗方の陰謀であったので宗方が誅されたと。 先の5月16日の「倉栖兼雄書状」の続きには、
また5月15日に金澤貞顕が、金沢文庫・称名寺の二代長老明忍房剱阿に送った書状にも、
とあり、金澤貞顕の居る六波羅探題南方の、いつ襲われるかという戦々恐々からやっと解放された安堵の様子がひしひしと伝わってくる。 その間の状況京の公家や六波羅探題の情報はこれ以上持っていないので、後世の鎌倉側の記録に戻るが、『鎌倉年代記裏書』にはこうある。
つまり、4月23日に「仰ト号シテ」連署時村を「夜討」した12人はそれぞれ有力御家人の屋敷などに預けられていたが、10日もたってから「此事僻事(虚偽)なりければ」と斬首された。しかし預けられた三浦氏の元から逐電した和田茂明に追討使が発せられた様子は無く、所領(地頭職か)は没収されたものの、12年後には嫡子に所領(下地権か)の譲り状を書いており、その後には旧来の所領を回復している。 和田茂明について細川重男氏は「追討使が発せられた様子はない」「12年後には嫡子に所領の譲り状を書いている」と指摘したが、高橋秀樹 「越後和田氏の動向と中世家族の諸問題」(『三浦一族研究』1997年 創刊号)によると、全く処分が無かった訳ではなかったかもしれない。 この和田茂明の子孫は南北朝期においてもそれなりの地位を持ち、中条房資が1454年(享徳3)に子孫に書き残した11ヶ条の文書が有名であり、そこから鳥坂城(鶏冠城)の由来が解った。 実は誅殺しておいてあれは間違いだったというのは頼朝のときからあった手口である。つまり頼朝は梶原景時に命じて上総介広常を殺したが、『吾妻鏡』元暦元年(1184年)正月17日条で広常がよこしまな心はもっていなかったことが明らかになり、その一族は赦免されたという件である。ただし広大な所領は返さなかった。これは最初から予定の行動だったと言われている(誰が言ったかは忘れたが)。 もうひとつは北条時宗が二月騒動で名越時章・教時兄弟を殺したときである。このとき時章追討は誤殺であったと言われ、事件後、得宗被官の討手5名が処刑された。 これが本当に宗方の陰謀であったなら、そしてそれがばれたのなら、既に身柄を拘束されている実行部隊より先に、陰謀を企てた宗方が捕らえられるか「誅殺」されるのが普通だろう。しかしそれが、実行部隊処刑の2日後まで、「殿中」からたった1kmちょっとの「宿所」に居る。 事態の収拾宗方が討たれた状況について『鎌倉年代記裏書』にはこうある。
その状況を『実躬卿記』5月8日条は、時村殺害は宗方の命令であるという噂に対処するため、貞時が師時亭で評定を行っていたところに宗方が「推入来」したため、北条貞時は佐々木時清を使わせて「暫不可来臨之由(暫く来ないで欲しいと)」 と伝えようとしたが、「打合、共落命」してしまったという。(これは直には読んでいない) 翌月6月10日付けの「禅海書状」(『高野山文書』「叉続宝簡集 78)には、その翌月幕府の評定(それとも寄合か)が貞時の山内邸で再開されたが、貞時も、宗方討伐の大将であった北条宗宣もその評定には出席せず、幕府は機能停止状態であったとある。またそこには「尚逐日可有合戦之由」と、再び合戦が起こるという風聞もあったようである。そして更に翌月の7月22日に、宗方討伐の大将北条宗宣が、殺された北条政時の後任として連書に就任する。 それから3年後の1308年(徳治3)8月の「平政連諫草」には、
と幕政への精励を要請、というか苦言を呈している。その次ぎには
と、これはもう苦言のレベルではなくお小言だろう。 尚この幕府奉行人平政連は「中原(平)政連」と書かれている処もあり、どういう人物なのかよく解らない。 安田元久氏は、「本来ならば、公的な幕府の政治体制を破壊するようなこうした要請が公然となされ、また多くの支持を得る筈はなかったのである」と、それを得宗体制確立の積極的な証拠とされている。得宗専制体制は確かに北条貞時の代に最も象徴的ではあるが、しかし、一旦『保暦間記』を忘れて、リアルタイムな京の記録からこの事件を見直していくとき、安田氏の論ずるところと、また別のものが見えてきはしないか。 仮説ここで仮に、この嘉元の乱を、貞時の闘争とその挫折と捉えたら、その前後が全てつながってくる様に思える。その理由のひとつは前日の貞時の館の火事である。 1301年(正安3)8月に北条貞時(31歳)が執権を引退し出家するまで、連書は大仏宣時(64歳)であった。そして貞時の出家とほぼ同時に大仏宣時も引退し出家する。このときまだ北条高時は生まれていない。執権を継いだのは子ではなく、従兄弟で、義兄弟で、また聟でもあり、兄弟の居ない貞時にとって最も近い血縁である北条師時(27歳)である。もう一人の従兄弟で義理の弟、宗方も20歳で六波羅探題北方、更に評定衆、四番引付頭人と引き上げていったが、1301年(正安3)ではまだ24歳。しかし大仏宣時の後に連署となった長老の政時(64歳)もなかなか手強く、思う通りに寄合を仕切れない。そこで政時を誅して・・・、となったのではないか。 『鎌倉年代記』によれば、貞時は北条宗方が打たれた5月4日には執権北条師時の館に居り、更に『実躬卿記』によればそこで評定を開いていた。では火事のとき貞時は何処に居たのか。貞時は事件の1ヶ月前に山内亭に移っていることが『鎌倉年代記』に見える。 全てが貞時達の描いた絵と一旦決めつけて推理するとこういうストーリーとなる。 貞時は身辺のものを連れて予め北鎌倉の山内亭に移る。山内には身辺警護と称して、多少の武士を手元に集める。留守番程度にしか人の居ない鎌倉館(小町宝戒寺亭)で火事を起こし焼失させる。火事があったからと見せかけて山内亭の警護の武士も引き連れて鎌倉館の隣、師時の館に移る、あるいは更に何人かの武士を手元に呼ぶことも、世間には特に「異変」とは見えない。 『鎌倉年代記裏書』では襲撃側で名の判る死亡者3名、事件後拘束された「先登の者」12名はそれぞれ御家人(御内人も逃亡した和田茂明のように御家人でもある)またはその子弟であり、氏名未記載の負傷者8名、そして時村側死亡者は『実躬卿記』に50余人がとあるので、襲撃側の総数も、所従・郎党を含めれば数十名に登ると思われる。それに加えて貞時と執権師時の護衛が後詰めを兼ねて同数居たと想定すれば、100名近い軍勢となり、火事の事後処理とでも見せかけなければ、これから討とうとする政時側も、その他の北条諸家も「異変」に気づくだろう。 師時の館は東勝寺橋を隔てて目標の時村の館は目と鼻の先。時村の館への通路は徒で山越えでもしない限りその橋だけである。時村とその孫熈時はその時点で袋の鼠。仮に誰かが気がついて援軍に駆けつけようとしても、貞時と師時の護衛兼後詰に阻まれて東勝寺橋は渡れない。 23日子の刻、つまり深夜12時から午前2時頃(今なら24日だが、この頃は夜明けが日の区切り)に討手の部隊が北条時村の屋敷を襲撃。翌24日朝、執権師時は京に早馬を飛ばす。着が27日であるからその時点で出発させていなければ難しい。 こうして北条氏庶流諸家の長老・大仏宣時は自分の出家の道連れに引退させ、その次ぎの長老北条政時を誅殺したところまでは良かったが、北条庶流の反発は想像を超え、貞時追求の急先鋒となったのが、先の連署・大仏宣時の子・宗宣である。そして貞時は片腕の北条宗方を大仏宗宣に討たれてしまう。直接には佐々木時清だし、佐々木時清が大仏宗宣側についていたのかどうかは解らない。あるいは貞時に近かったがこの混乱を収め貞時を守る為には宗方に死んでもらうしかないと、行き会った宗方と差し違えたのかもしれない。それを受けて大仏宗宣は、二階堂大路薬師堂谷口(現在の鎌倉宮の左側あたり)にあった宗方の屋敷を攻め、屋敷には火をかけ宗方の多くの郎等を攻め殺した。全体の流れとしては大仏宗宣に討たれたと同じことになる。 更なる混乱を避ける為に、全ては既に討たれた北条宗方のせいにして事態の収拾を模索し、京の六波羅、更にそこから西国の御家人に対して、「この事につき、在京人ならびに西国地頭御家人等、参向すべからざるのよし」と釘を刺す。それでも鎌倉には「尚逐日可有合戦之由」と、再び合戦が起こるという風聞が飛び交う緊張した状況が続き、定例の評定は事実上流会となり、京の公家には「関東しづかならず」と書かれる。 その流会した評定から更に翌月の7月22日、「不慮に誅せられ」た連署・北条政時の後任に、北条宗方を討った北条宗宣が就任してやっと手打ちとなる。しかしそれは北条宗方という片腕をもがれた得宗北条貞時の完全な敗北を意味してはいなかったか。自暴自棄になり「連日酒宴」、評定も寄合もほったらかしとなるのも理解出来なくはない。 となると、細川重男氏の言うように、得宗専制体制なるものは実は得宗家の完全独裁ではなく、それを取り巻く泰時の代からの北条庶流と、政所、問注所などの実務を担ってきた文筆の家の家格の確立、それによる秩序・バランスにより支えられていたものであり、貞時はそれを強権的に突き崩そうとして敗北したと言えるのではないだろうか。つまり専制化に失敗したと。 もちろん確たる証拠は無い。全ては状況証拠に過ぎない。しかし「貞時の闘争とその挫折」と捉えたら上記のように個々にはまったく理解しがたい断片が見事につながってくるのである。 諸説黒田俊雄氏は『日本の歴史8 蒙古襲来』 (中央公論社 1965年 p388-389 )で、『保暦間記』に書かれている嘉元の乱のあらすじを紹介して、「しかしこの作戦はまったくまずい・・・・すべて行きづまってくると、権力欲の争いもくだらないやりかたになってくる」と書かれているが、黒田俊雄氏とて霜月騒動や、平禅門の乱の理由で『保暦間記』の説明を是とはしないだろう。なぜここだけ『保暦間記』を信用するのだろうか。おそらくはそれほと大きな転換点とは見なしていないからだろう。 奥富敬之の『鎌倉北条氏の基礎的研究』でも『鎌倉北条氏の興亡』でも真偽のほどは保留しながらも、事件は『保暦間記』に沿って説明している。 もうひとつ、『保暦間記』の記述は安田元久編・『鎌倉将軍執権列伝』(1974年) 五味克夫 「執権北条貞時」 p313 に多分ほぼ全文が出ており、その他の史料でどう書かれているかも紹介されているが、しかし『実躬卿記』は一切出てこない。 『保暦間記』によれれば北条宗方の野心ということになるが、『実躬卿記』に「宗方当時随分有賢之聞」とあるような切れ者の陰謀にしては如何にも間が抜けているし間が開きすぎている。そもそも南北朝時代に書かれた『保暦間記』の信頼性がどれほどのものかは霜月騒動が、平禅門の乱の原因がどう書かれているかを見るだけでも十分に解るだろう。両方とも将軍になろうとしたから滅ぼされたというのである。 何で『実躬卿記』が参照されなかったのかが不思議なので調べてみた。すると東京大学史料編纂所編 岩波書店版の『大日本古記録 實躬卿記』全7巻の最新は2006年03月発光の5巻(自嘉元元年至嘉元2年)で、「嘉元の乱」が出てくるのは次ぎの6巻のようである。1巻進むのに4〜5年間隔なので、『大日本古記録 實躬卿記』で「嘉元の乱」を調べることが出来るのはまだ数年先かもしれない。であれば上記のような『保暦間記』とは違う解釈は20世紀の研究書に出てこないのは当然かもしれない。すると細川重男氏は史料編纂所でその作業をやっていたか、見せてもらったか、ということなのだろうか。 追記 2009.11.2これを書いたあと、新たな史料が発見されたことを知った。尊敬閣文庫と宮内庁書陵部に所蔵されている後醍寺関係史料である。ここまで書いたことがひっくり返ることはないが、どこまで補強出来るのかはまだ良く判らない。 2008.3.20〜5.19、2009.9.29-10.5 追記 |
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