8.吾妻鏡の歴史資料としての価値

  1. 吾妻鏡・明治の研究 AZM_10_04.jpg
  2. 吾妻鏡・大正期の研究
  3. 吾妻鏡の構成
  4. 吾妻鏡の原資料
  5. 吾妻鏡の曲筆と顕彰
  6. 吾妻鏡の編纂時期と編纂者
  7. 編纂の背景と意図
  8. 歴史資料としての価値
    星野恒 
    原勝郎
    八代国治
    佐藤進一
    五味文彦

 

 

歴史資料としての価値

星野恒

星野恒の『吾妻鏡考』(1889年)の全文は読んでいないが、諸研究書(例えば角田朋彦「吾妻鏡研究の軌跡」『吾妻鏡辞典』収録)に見る限り、『吾妻鏡』を幕府記録の嚆矢(こうし)であり、武家制度、法令、政治経済を理解する上で必須の史料と位置づけているらしい。「彼平家物語、源平盛衰記等ノ専ラ潤飾ヲ事トスル者ト、素ヨリ日ヲ同ジクシテ語ルベキニアラズ」として『吾妻鏡』を研究史料の俎板に乗せた点で、『吾妻鏡』研究の出発点ともなったことは確かである。後には色々と批判はされるが、平家物語、源平盛衰記等と同じに扱うべきではないとするところは「まことにもってその通り」といえる。

しかし、星野は源平盛衰記の時代、つまり1185年の平家滅亡までや、源頼家の将軍職退位など、あまりにも明らかな部分以外にはほとんど疑いを抱いていなかったのではなかろうか。原勝郎が『吾妻鏡の性質及其史料としての價値』を表したのはそれに対する警鐘だったのだろう。 

原勝郎

原勝郎は、史料として吾妻鏡の価値は「主として守護地頭其他の法制に關係ある事實」にあるとしてこう述べる。

これ吾妻鏡の史料は多く政所問注所に關係ある諸家の日記其他の記録なるべきの故のみにあらず、法制關係の事項は曲筆せるゝ危險の度比較的寡少なるを以てなり、其他の事項に關しても吾妻鏡は豐富なる史料を供給する者あれば、鎌倉時代の根本史料たることを失はざれども、法制關係を取除きての政治史の材料としては一種の傾向を有するよりして、從ひて往々曲筆を免れざるが故に、信憑すべき直接史料となし難きものなり。

鎌倉時代の法制史に関しては『吾妻鏡』は多くの資料を提供してくれる(ただし、曲筆以外の問題が無い訳ではないが)。 また、先にも紹介した1912年(大正1)の『足利時代を論ず』と言う論評の中でこうも書いている。

されば吾妻鏡が、鎌倉時代前半の史料として、非常に貴重なものであることは、勿論であるけれど、其吾妻鏡に載って居るからと云って、吾人は直に之を輕信することは出來ぬ。けれども吾妻鏡に記載してある時代は、此記録を第一の便りとして、兎に角見當をつけることが出來るからまだしもであるが、鎌倉時代の後半、即吾妻鏡を離れた時代に入ると、何を重な史料として研究したらよいのか、殆ど雲をつかむやうな氣がする。

これは原勝郎だけでなく、それ以降の歴史学者の等しく認めるところであろう。

八代国治

八代国治は『吾妻鏡』に恨みでもあるのだろうか、源頼家の怨霊が乗り移ったのだろうか、と思いたくなるぐらい『吾妻鏡』を語気強くこき下ろすが、これもまた原勝郎の警鐘の続きであるような気がする。原勝郎が1898年(明治31)に『吾妻鏡の性質及其史料としての價値』を表してから15年経っても、まだ当時の歴史学会には吾妻鏡絶対主義とでもいうような風潮がかなりあったのだろう。その八代国治は、『吾妻鏡』の価値についてこう述べる。

之を要するに、吾妻鏡は純粋の日記にあらずして全部後世の編纂物なるを以て、編纂の際の切張等の誤りにて、年月を違いたるものを生じ、記事の誤りにて生存者を死亡者とし、死亡者を生存者とし、曲筆を以て、北条氏を弁護し、事実を消滅し、叉は舞文潤飾したりと読む点少なからずを以て、諸社寺諸家の所領に関する事績、及び政権闘争史に関する史料としては、一等史料として信依し難き点少なからず。

然れども、翻て考ふるに、幕府政所、問注所、及び之に関係せる者等の日記、記録、文書、及び京都公家の日記の如き、根本資料に依りて編纂したる所大部分を占め、その編纂も幼稚にして余り斧削を加えず、材料そのまま採録し、編纂者の詞を前後に綴り合わせたるを以て、上述の誤謬を糾し、粗漏を除きては、鎌倉時代の根本資料として価値を失わざるのみならず、恐らくは之に比敵するものあらざるべし。p182

実はこれが八代国治の『吾妻鏡の研究』の結びの一文にして結論なのである。別に八代国治は『吾妻鏡』を価値無きものといっている訳では決してない。それゆえにこの『吾妻鏡の研究』を真剣に行い、その後長らく『吾妻鏡』研究の定説に成り得たのだと思う。

佐藤進一

その八代国治の研究は明治から大正の初期にかけてのものだが、戦後の佐藤進一・池内義資編の『中世法政史料集』(岩波書店 1955年)の態度は、八代国治いうところの「上述の誤謬を糾し、粗漏を除き」という作業が如何に難しいかを物語っている。そこでは「対応資料の見出せない場合には一切吾妻鏡を採録せず、後日の研究を俟つことにした」とする。それは以下の理由による。

編纂上の疎漏に基づく誤脱の極めて多い書であって、法令関係記事の如きも、全く架空のものを作り出した例は見あたらないとしても、主として切り継ぎの疎漏に起因する年次の誤り、同一事実の重出と認ぬべきものは随所に指摘されるのである。

もちろんこれは史料の確実性を最大限に重んじた同書の性格にもよるものだが、佐藤進一氏らが慎重になるには理由が無い訳では当然ない。かつて原勝郎が、ここには曲筆は入り込まないだろうとしてその史料価値を認めた「主として守護地頭其他の法制に關係ある事實」についても、意図的な曲筆以外の問題があった訳である。くしくもそのまさに守護地頭のこと、先に顕彰記事に関して紹介した件、大江広元が「守護・地頭」設置を献策し、北条時政がそれを京で後白河法皇に強く要求したという下りである。それは『中世法政史料集』編纂より後に問題提起され、盛んな議論を巻き起こした。佐藤進一氏らが慎重になったのも頷ける。

五味文彦

近年『吾妻鏡』の研究で大きな仕事をしたのは五味文彦氏であるが、五味文彦氏は『中世法政史料集』の態度を紹介しながら、それでも『吾妻鏡』は、実に豊かな法令を含んでいるという。(p142 注記1) 近年での五味文彦氏の吾妻鏡研究はそこに係わる取り組みであるが、氏はその書の中でこう述べる。

それだけに『吾妻鏡』の原史料が何であったかという問題はむしろ一層の必要性をもって迫ってくる。原史料の見通しをつけることができれば、編纂のありかた、誤謬のあり方も自然にわかってくるように思う。 p87

八代の編年などの推定などいくつかの点は、確かに五味文彦氏らによって修整はされるが、八代国治が『吾妻鏡』の編纂者達を政所と問注所の吏員である大江広元の子孫(毛利、長井)、二階堂行政の子孫、三善康信の子孫達(大田、町野)ではないかと述べていたが、五味文彦氏の研究においてもほぼ同一の結論に達している。そして「原史料の見通し」、ベースとなる筆録の著者を独自の方法で割り出していった。

五味文彦氏の研究は、八代がその著書の結びとした「鎌倉時代の根本資料として価値を失わざるのみならず、恐らくは之に比敵するものあらざるべし」という方向で、更に具体的に研究と推論を発展させたものといえるだろう。

2008.3.20〜4.28