6.1 八代国治の編纂2段階説と益田宗の批判 |
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八代国治の2段階説星野恒と原勝郎は後半は日記だろうとした。もちろんその範囲にだいぶ隔たりはあるのだが、いずれにしても宗尊親王の頃までには前半の編纂も終わっていることにはなろう。それに対して1912年(大正1)『史学雑誌』(23-10)に『吾妻鏡古写本考』を発表した和田英松は、全てが後世での編纂とし、その時期は時宗、政村の時代とした。 1913年(大正2)八代国治は『吾妻鏡の研究』5章(p68)で、源氏三代の将軍記とそれ以降三代の将軍記とは大きな隔たりがあるとし、編纂二段階説を唱える。そして八代言うところの前半、源氏三代の将軍記の編纂年代は和田英松同様に時宗、政村の時代、1265年 (文永2)以降、1273年 (文永10)までの頃であろうとする。そして後半三代の将軍記は1290年(正応3)から1304年(嘉元2)の頃とする。 長らくそれが定説とされてきたが、1960年代以降、益田宗氏や笠松宏至氏が、八代国治の2段階説はそれを裏付ける積極的な証拠は乏しいとして、全てを八代国治が後半三代の将軍記作成年代とした1290年から、あるいは1300年から1304年(嘉元2)の頃とした。 五味文彦氏は2000年の『増補 吾妻鏡の方法』において、笠松宏至氏や益田宗氏の説を踏襲するが、ただし五味文彦氏は、それ以前の1235年頃に、「頼朝記」とでも呼べるような歴史書(『原吾妻鏡』が原型として出来上がっており、同じころに京都では『原平家物語』が著され、また東国では『原曾我物語』がつくられたということもあり得るのではないかともしている。 そうした研究史の流れの中で、ここでは八代国治の2段階説と、その妥当性について見ていくことにする。 尚、これ以降はあたかも八代国治説への批判の紹介がメインとなるが、しかし八代国治が戦っていた相手は吾妻鏡史観とでも言えそうな、吾妻鏡至上主義的な傾向に対してであり、その後の八代説への批判は、八代国治を出発点としてその研究の成果を更に進めるものであることはいうまでもない。 1913年(大正2)の『吾妻鏡の研究』から既に100年近くが経とうとしている。にもかかわらず、八代説から一歩も進めなかったとしたら、むしろ八代国治は「情けない」と嘆くのではなかろうか。 将軍記の首書(袖書)2段階説に入る前に八代国治が『吾妻鏡』編纂年はそれ以前でもそれ以降でもないとした範囲をまず確認しておく。 頼朝将軍記の首書(袖書)において、後鳥羽院没後の謚(おくりな:没後に付けられる名前)があるからである。後鳥羽院は最初の追号は顕徳院だったが、1242年(仁治3)7月8日に後鳥羽院に改められたと書いてあり、そこからそれ以前であるはずがない。
第42巻の宗尊将軍記の袖書きに、後深草院を「院(諱久仁)」としてのみ記し、また1290年(正応3)2月に出家しているとのみ記しているので、この文が書かれたのは後深草院の存命中、つまり亡くなる1304年(嘉元2)7月以前であるはずだ。もしも編纂がそれ以降であれば、ちょうど先述の後鳥羽上皇のように、没後の謚(おくりな)である「後深草院」と呼ばれるはずだが、そうはなっていない。ちなみに亀山院も「院(諱恒仁)」とのみある。
宗尊将軍記の袖書きの記述から、もうひとつ読み取れることがある。それは、後深草院を「院(諱久仁)」としてのみ記し、また「正應三年二月十一日、御落餝」と記しているので、これが書かれたのは1290年以降ということである。 尚、編纂年の推定をシンプルにするために一時的にひとつの仮定を置いておきたい。それは、各将軍記が編纂の単位であること、各将軍記の編纂は同時に始まったか、別々であったとしてもその最初は頼朝将軍記から将軍記単位で順にであったというものである。 その仮定、前提が是とされるなら、『吾妻鏡』の編纂は1242年(仁治3)7月8日以前ではなく、また1304年(嘉元2)7月以降でも無いということ、そして最後の宗尊将軍記の編纂は1290年を遡ることは無いということが最低限確認される。このことについては誰の反論もなく妥当と思われる。そして最後の宗尊将軍記が書かれたのは1290年以降1304年までということである。もちろんそれは、1242年(仁治3)7月9日から編纂が始まったということでも、1304年(嘉元2)6月まで続いていたということでもない。
この3つの想定は全て先の条件を満たす。 ここまでは誰も反対しない。その幅はあまりにも広すぎるが、ともかく八代以前の編纂年代想定を覆すには十分である。 八代の編纂年の推定と益田宗の批判「吾妻鏡の構成と編集方法」において見てきた通り、八代国治は前三代記、つまり源氏三代記と後三代記は「別の編纂物にあらざるをしるべし」とする。ふたつに分けた上で、後半の三代記は一連作業としてとらえ、そこからその編纂時期は1290年2月から1304年7月までの間であるはずだとする。後半三代記については編纂年の範囲の想定は極めてシンプルで説得力はある。 問題は約20年もの中断を挿んで二つに分ける根拠がどれほどのものか、ということについては八代は「編纂態度が全然違うから」「元寇があったからそれどころでは無かったろう」としか言わない。そこに戦後の殆どの研究者は疑問を呈しているのだが、ここでは一端置いておこう。 八代国治は、その前半三代記の編纂年の推定において、1205年(元久2)6月22日条の畠山重保、次いで畠山重忠が討たれた長文の記事の最後に、「今日未尅、相州室(伊賀守朝光女)男子平産(左京兆是也)」とあることに着目する。 この男子が北条義時の四男で、北条時宗のときに執権・連署を務めた北条政村であり、左京兆とは左京大夫の唐名である。そしてその北条政村 が左京権大夫になるのは1265年 (文永2)3月28日であり、1273年
(文永10)5月18日に出家している。
八代国治の理解に疑問を呈したのは益田宗氏が初めてではなく、佐藤進一氏は先輩である坂本太郎氏が通説(八代説)を上記引用のように批判したのを直に聞いたと話されていたそうである。 ただし坂本太郎氏は1986年に書いた『史書を読む』(中公新書)では、『吾妻鏡』の編纂年代を「八代国治博士の説によると・・・」とそのまま紹介し、「編纂年代のことはなお考慮すべき点もあろうが(p134)」と保留しながら次ぎの話題に移ってしまっている。は元になる雑誌での連載が「史書を読むことは楽しい」ということを伝える為のものであるからだろう。とは言いながら最後のところで唸ってしまったが。楽しんで気軽に書いていても、たったの12ページであっても、鋭い人はやはり鋭い。 ちなみに、同じ相州の子である泰時も1236年から1238年まで左京権大夫だった。けれども歳は20も離れているし、泰時は1237年(嘉禎3)12月13日条や1241年(仁治2年)12月30日条のように左京兆と書かれていることもあるが、没後は1243年(仁治3)6月15日条、1253年(建長5)11月29日条のように、武州、前武州と言われることがほとんどである。 八代説を直前の割書にある伊賀守朝光に当てはめれば、『吾妻鏡』1215年(健保3)9月14日条により、伊賀守朝光が伊賀守となった1210年(承元4)3月19日から、急死する1215年(健保3)9月14日までの間にこの編纂がなされたことになってしまうのではないか? 政村の子北条時村も左京権大夫(左京兆)となったが、それは1303年(嘉元1)11月17日になってであり、『吾妻鏡』編纂の下限ギリギリの時期である。このことを「逆手」に取って、この文は1303年(嘉元1)11月17日以前と推定出来るのではないだろうか。これは実に魅力的である。 八代説「前半の編纂時期」の時代背景八代国治が唯一の証拠としたものはそうして否定された。しかし八代国治が、『吾妻鏡』前半の編纂時期をその頃と思った本当の理由(動機)は、「左京兆是也」の割書よりも、その時代認識にあったように思う。この時代を八代国治は「時宗、政村とあい和し、事を行い、国富み兵威揚がり」(『吾妻鏡の研究』 p73) というような鎌倉幕府の黄金時代と認識しているが、果たしてそうだったのだろうか。その時期の主だった事件を挙げれば以下の通りである。
北条時宗は元寇に対応した英雄とされるが、既に述べたようにこの時代は鎌倉幕府の御家人と、そして北条一族にとってさえ暗い時代の幕開けとも言える。北条時宗は二月騒動で一族の名越流2代に当たる評定衆北条時章・教時兄弟を誅殺し、同時に六波羅探題南方の兄北条時輔も殺し、独裁体制を築いていく。その中から平頼綱ら内管領も台頭してくるという時代であった。 その北条時宗が死んだあと、内管領平頼綱が引き起こした霜月騒動の直後に、安達泰盛の娘、海蔵寺の「底抜けの井」の逸話の千代野を妻にしていた北条顕時もあおりを食らって下総国埴生庄に隠棲し出家することになる。そのときに北条顕時は、北条時宗による二月騒動での粛正から霜月騒動までを振り返って「凡此十余年之式、只如踏薄氷候幾、今既其罪当身候之間、不運之至思設事候」*1と綴っている。 更に、二月騒動から33年後の1305年(嘉元3)4月、内管領の職務を代行して「内執権」と称されていた北条宗方が、貞時の有力重臣で連署を務めていた北条時村を殺害した。嘉元の乱である。このとき、京の公家の日記『実躬卿記』等には、鎌倉からの早馬は「時村が貞時に誅された」と伝えたことが記されている。また六波羅探題南方であった金沢北条貞顕以下は、探題北方からの襲撃を恐れて大いに狼狽したと金沢文庫の古文書は伝える。二月騒動で北条時宗が、名越時章を討つと同時に、六波羅探題南方であった兄北条時輔を北方に討たせた一族の暗い記憶が鮮明に残っていたからだろう。 八代国治の時代認識は現在の研究のレベルから見ると外しているようにも見える。黄金時代というよりむしろ暗黒の時代の幕開けだったのではないだろうか。 *1:『賜蘆文庫文書』(東大史料架蔵影写本)所収の1285年(弘安8)12月21日付「 金沢顕時書状案」、もっともこの文章は称名寺宛に寺家敷地を寄進する文書であり、永和年間頃に作られた偽文書ではないかという研究もあるらしい。細川重男氏は「この文書が作成されたこと自体が、時宗政権が異常な緊張状態にあったこと、二月騒動が霜月騒動と並ぶ衝撃的な事件であったことが、百年以上後にまで記憶されていたことを示している。」とされるが私もそう思う。 更に言えば、偽文書は本当の部分に嘘を付け足すから信用されるのである。寺家敷地寄進までは書かれていない「金沢顕時書状」、またはそれに近いものがあったからこそ、見せられたものがそれを信用する偽文書を作ることが出来たのではなかろうか。 ただし益田宗氏の「左京兆是也」への異論は、八代国治が編纂2段階説とその前半の作成年代推定の表向きの根拠を否定しただけである。それを否定しただけなら『吾妻鏡』の前半作成年代は1242年(仁治3)から1304年(嘉元2)6月までの何処かで、どこだか解らないとなるだけで、編纂2段階説は根拠薄弱であると言っても、編纂1段階説も同じ程度に根拠薄弱なままである。 八代の言う前半三代記も、八代が想定した後半三代記と同じ時代だと積極的に主張するにはそれなりの根拠が無ければならない。それが次ぎに見ていく1297年(永仁5)の永仁の徳政令(関東御徳政)に端を発した偽文書の前半三代記への編集、そして前半三代記、特に実朝将軍記に利用された『明月記』が利用可能になった時期の検証である。それを次ぎに見ていく。 2008.3.20〜5.15、8.19-22、8.28分轄 9.3、9.11 追記 |
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