3.吾妻鏡の構成と編集方法

  1. 吾妻鏡・明治の研究 AZM_10_21.jpg
  2. 吾妻鏡・大正期の研究(八代国治)
  3. 吾妻鏡の構成 
    前半(源氏三代記)
    後半(北条泰時・時頼の時代)
    −−原勝郎
    −−八代国治
    −−弘長年間の欠落
    編集方法と記事の特徴
  4. 吾妻鏡の原資料
  5. 吾妻鏡の曲筆と顕彰
  6. 吾妻鏡の編纂時期と編纂者
  7. 編纂の背景と意図
  8. 歴史資料としての価値

 

吾妻鏡の構成

原勝郎はいくつかの「特有なる熟語」を特徴として3段階に区切ったが、ここではより大掴みに前半の源氏三代記と、後半の三代記との2段階にまず分け、そのうえで原勝郎の分類を見ていくことにする。『吾妻鏡』は将軍記の体裁を取ってはいるが、その後半は北条執権記とでも言えるような側面もある。また源氏三代記の最後と北条泰時の時代の冒頭は実質尼将軍の時代でもある。

前半(源氏三代記)

原勝郎は、『吾妻鏡』の各巻の記述の特徴から、3段階に分けて、第一部を「治承四年より承元前後まで」(1180〜1210年前後)として以下のように評する。尚この部分は主に源氏三代の時期である。

此部は諸家の記録及故老の物語を參照して日記體に編述せし者なるべく吾妻鏡中趣味尤津々たれども從ひ潤飾の跡多く北條氏の爲に曲筆をなせし個所少からず・・・

八代国治は源氏三代記の部分をこう評する。

叙事巧妙にして、文章頗流暢なり、恰も源平盛衰記や平家物語を読むが如く、将た日本外史を読むが如く、文学的将軍実記とも云うべきものなり、・・・・・政治上の出来事は勿論、戦記、武士道に関する物語、法制、風俗等に力を注ぎたる・・・・、p68-69

特に冒頭の頼朝記の部分は、日記形式ではあるが物語性が非常に強く、書き出しは令旨に象徴される朝廷の権威、頼朝という武士の長者、そして北条時政に代表される東国の武士団、というキーワードを強く意識しており、それが吾妻鏡の考える鎌倉幕府の端緒であったのだろうと五味文彦は述べる。またその中で頼朝が真っ先にその令旨を北条時政に見せるなど、北条時政は別格の扱いで描かれており、その後北条氏が鎌倉幕府の事実上の主となることを読むものに予感させている。

後半(北条泰時・時頼の時代)

原勝郎

原勝郎は第二部は「建暦前後より延應の前後まで」(1210〜1240年前後)とし、一部実朝と重なる。これは文章の癖から区切っているためである。その中心は俗にいう尼将軍の時代から、将軍藤原頼経の代、執権はほぼ北条泰時の時代に当たるが、原勝郎は次のように述べる。

此部は追記の個處も曲筆も第一部よりは少し、大事變の場合を除けば他は主として諸家の日記によれるものの如し、全體に於ては一人の編輯の如くなるも、口碑を採用せし點は至って少く、第一部に比して多く信憑するに足る。
文暦二年及寛元二年の重出するは第二部の終りと第三部の初と其年代に於て重複する所あるの證左なるべく、第二部も終りに近くに從ひて純粹の日記となる、恐くば第三部の初は第二部の終りの直接史料にあらざるか。
第二部の第一部と其編者を異にするは、大事變大儀式等を記述するに當りて、第二部に特有なる熟語例へば「濟々焉の如し」の用ひらるゝによりて之を推すべし。

つまり、原勝郎にとって重要なこと、まず言わなければならなかったことは、追記と日記の濃淡、曲筆の濃淡であり、彼いうところの「特有なる熟語」をもって、おおよそこの「延應の前後まで」は追記の可能性あり、一歩引き下がってもグレーゾーンとみなしているようにとれる。原のいう第二部、つまり後半の中の前半部分には、承久の乱から御成敗式目の制定など、北条泰時の執権体制の固めの時期であり、源氏三代記ほどではないにせよ、それなりに気を遣いながら気分も充実して編纂したであろうと想像される。密度に相違があるとすればそのあたりか。

そして原勝郎は「延應前後より終りまで」(1240〜1266年)第三部としてこう評する。というかこの1行しかない。

此部は北條氏の左右の記せる純粹の日記なり

将軍は藤原頼嗣から宗尊親王まで執権はほぼ北条時頼の時代である。先の第二部の終り近くもこの第三部も、日記と言い切ることについては現在では否定されるが、特に宗尊親王記は御所奉行の日記が中心になったと推測され、それらの原資料を寄せ集めて日付順に編集した原資料集に近いものではあろうから、日記と読んだのは理解は出来る。要するにはっきり云えばつまらない。

八代国治

『吾妻鏡』の構成を将軍記とみる八代国治は、先に引用した源氏三代記の部分と比べて、将軍藤原頼経以降の三代の部分は以下の4点で大きく異なるとする。即ち

  • 叙事は平凡にして、文章も流暢ならず、日記を読むが如く無味乾燥にして興味少なし、これ両者の著しく異なる点の第一
  • 儀式に関する記事多し、これ両者の著しく異なる点の第二
  • 天変、地異、祭礼、祈寿に関する記事多し、これこれ両者の著しく異なる点の第三
  • 前三代は北条本、吉川本共に異同少なく、後半は尤も著しく異なる第四の点 (p68-69)

これらの点から、八代国治は前三代記、つまりここでの第一部である源氏三代記と後三代記は「別の編纂物にあらざるをしるべし」とする。ただしこれは別種の資料に基づき、別の編纂者が当たったということは出来ても、その編纂時期まで別とすることを積極的に裏付ける材料はない(五味文彦p295)。これについてはあとの「編集時期」の中でもういちど触れることにする。

弘長年間の欠落

石井進は頼朝の非常に重要な時期や、弘長年間(1261〜1264年)の重大な時期が欠けているところに注目し、ここには北条氏の執権政治を護持する立場からの作為があって、それが編纂者への圧力となったために書けなかったのではないかとする。

この石井進の『「吾妻鏡」の欠巻と弘長二年の政治的陰謀』(『鎌倉武士の実像』収録)は、その時期に肥前国の御家人までが招集を受け「鎌倉にひそめく事あてめさるる」から合戦になるかもしれない、自分も命の保証は無いからと、出発前に息子地頭職や所領を譲った古文書があること、『吾妻鏡』だけでは鎌倉幕府の権力闘争の実際は解らないことへの注意喚起と受け取っておいた方がよいだろう。石井進自身その終わりを「もう止めよう。初め「仮想」だとことわった私の見込みは「仮想」たりうるどころか、ついに「妄想」にまで転落してしまったらしいから。」と結んでいるので。

編集方法と記事の特徴

記事の切り貼り

例えば原勝郎が分類した第二部以降つまり、建暦前後以降(1210〜)に顕著であるが、複数の出典の切り貼りであまり統一性を持たせてはいない。例えば私自身の経験では、現在の亀ヶ谷坂切通しのことなのか、それとも巨福呂坂切通しのことなのかという「山内道路」の改修工事の下記の記述がある。研究者が指摘した他の点と比べれば些細な問題なのだが、切通しの歴史を調べているときにここの記述にはかなり悩んだ。その沙汰があったのはいったい十日なのか、十九日なのか。何でこんな書き方がされるのか。1240年(仁治元)の記事である。ここだけは原文(漢文)で引用しよう。

仁治元年十月小十日庚子。
於前武州御亭。可被造山内道路之由。有其沙汰。安東藤内左衛門尉奉行之。
同十月小十九日己酉。天リ。
大倉北斗堂地曳始事。佐渡前司。兵庫頭等可奉行之云々。又爲前武州御沙汰。被造山内道路 。是嶮難之間。依有往還煩也。

おそらくは十日の条の原資料の記者は前武州(北条泰時)の御亭、小町西亭か山内亭(現常楽寺近辺)か、いずれにしても私邸でそのことを決めたときに同席しており、十九日条の原資料の記者は公式の場でその発令があったときに臨席していたのであろうか。

しかし「有其沙汰」と「又爲前武州御沙汰」では「爲」によって、10日の北条泰時の「御沙汰」によって、それが19日に実行されたとも読める。「是嶮難之間。依有往還煩也」はどうか。10日段階では忙しかったので「御沙汰」の事実のみを記し、19日には余裕があったのでその理由まで書いたと?
しかし10日条は「庚子」と干支で終わり、19日条では「天リ」とその日の天気が書かれる。それぞれ別の人間が書いた日記を、編集者がその内容や関連に何も気を配らずにそのまま書き写したとしか思えない。このような切り貼り寄せ集めによる矛盾は随所に見られる。

切り貼りの誤謬

八代国治は治承5年(1181年)5月19日条の三河御目代大中臣以通から内外宮政所大夫への送状、同年5月29日条の伊勢太神宮禰宜の返状などは、1年間違えて翌年の寿永元年の記事とされていることを指摘している(p131)。また石井進は寿永2年(1183年)の記事が養和元年(1181年)に入っていることを1961年の『志太義広の蜂起は果たして養和元年の事実か』(『鎌倉武士の実像』収録)で指摘している。

しかし皮肉なことに、この切り貼りの誤謬が『吾妻鏡』の史料価値を高めることに結果的にはなっている。つまりそれは原史料にあまり手を加えず、切り張りで編集しているということであり、編纂という手は加わっていても、その個々の材料は一次史料に近いものであるはずだからである。そうであるならばその原史料が何であったかが解き明かされれば、『吾妻鏡』の史料価値は一段と高まることになる。その作業はまるで考古学の発掘調査のような注意深さが必要であるが、得られるものは大きいのではないか。というのが五味文彦氏の近年における研究といえる。

2008.3.20〜4.29