4.1 吾妻鏡・原史料の類型と京系史料 |
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ここでは吾妻鏡の原資料が何であったかを簡単に整理してみる。吾妻鏡の原資料について、その後の研究に大きな影響を与えたものとしてはまず八代国治の『明月記』その他、京の貴族の日記などが多数使用されていることを具体的に検証していったこと。そして五味文彦氏による原史料の類型と、その中でもベースとされたと思われる日記、筆録の原著者の推定である。まず、類型を整理するために五味文彦氏の分類をまずあげておく。 原史料の類型五味文彦氏は『吾妻鏡』の原史料としていくつかの類型が浮かび上がるとする。それは以下の(1)から(3)の3つである。京系の記録はそのうちの2に含め考えられももするが、とりあえずここでは独立させて、(4)として置いてみる。
おそらくは、一般的には(1)をベースとして、それを(2)や(3)(4)で補強する形で編集していったと、とりあえず置いてみることが出来る。もっとも初期についてはむしろ(2)が中心であったかもしれない。いずれにせよ切り貼りなのだが、そう想定して検証していくことで、『吾妻鏡』の成り立ち、そしてそれがどこまで信用出来て、どういう部分が信用できないかを洗い出す事が出来る。 そうすると(1)のベースとなる筆録が誰のものであったのかが一番重要なポイントとなるが、その推定はかなり困難な作業となる。そこに入る前に、まず京系の記録を、そして将軍記の全体ではないが、初期の公事奉行人、つまり頼朝時代からの京下りの文官と、部分的ながら比較的明らかな合戦記について見てゆき、そのあとで(1)のベースとなる筆録の推定について追ってみることにする。 八代国治の吾妻鏡編纂材料星野恒も、『平家物語』や『源平盛衰記』を参考にしているとしていたが、誰もそこが本当に日記とは思わない部分、おそらくは文治年間1185年あたりに限られていたのではないだろうか。原勝郎も『吾妻鏡』の記述自体の中から星野恒より広い範囲が追記である可能性を指摘したが、「何からの」というところまでは触れなかった。それに対して八代国治の研究のもっとも大きな特徴は、鎌倉幕府の日記と思われていた『吾妻鏡』の元史料の分析にある。 もちろん八代は、『吾妻鏡』はまず第一に幕府の政所、及び問注所の記録文書をベースとし、それに京系の記録を加えて編纂したのであろうとしてこのように述べている。
そう認めた上で、京の貴族の日記などが多数使用されていることを具体的に検証していったことはまず前提として押さえておかなければならない。八代はそのページの多くを『明月記』他の京系の記録との照合に当てているが、約50巻に及ぶ膨大な記事の中ではそれらはごく一部に過ぎない。 だが、そうした外部の資料が、あたかも幕府関係者の報告として用いられたり、例えば三善康信が、あるいは北条泰時の語ったことの中に隠れているなど、偽造、盗作、としか云いようがない部分まであり、それまで思われていたような幕府の吏員による公式な日々の記録などというものでは決してなく、後世の者の手によって、相当の作意を含みながら編纂されたものであることを明らかにしていったという点では、原勝郎が警鐘をならした史料批判の観点を、更に推し進めたものといえるだろう。 明月記八代国治が最初に発見したのは、1208年(承元2)9月27日の京の朱雀門焼亡に関する『吾妻鏡』同年10月21日の下記の記事が藤原定家の『明月記』から写したものであったことである。(『吾妻鏡の研究』 p59)
これは『明月記』の承元2年9月27日条には、「常陸の介朝俊」以下「奔走すと」まで、ほとんど同じ文である。もちろん原文の漢文で比較してだが。それをきっかけに、八代は原勝郎が「吾妻鏡は少くも嘉禄二年(1226年)までは追記の事實を混じたるもの」としたその追記が、いったいどこまで続くのかを具体的に検証していった。そして、『明月記』以外にも多くの編纂材料と思われるものを見つける。その結果が『吾妻鏡の研究』であり、「第六章 吾妻鏡編纂の材料」において、『吾妻鏡』の該当箇所と、オリジナルであろうとするものの該当箇所、計29ヶ所を具体的に紹介する。 そしてそれらのことから、『吾妻鏡』は日記の体裁を取りながらも、明らかに後世の編纂物であると八代は断定したのである。その後の研究により、八代国治が原出典と考えた京系の史料のいくつかは否定されたが、『明月記』については新たに3箇所が明らかになっている。 益田宗氏の 「吾妻鏡の本文批判のための覚書(吾妻鏡と明月記との関係)」(1971年)。和田合戦での利用を指摘したのは益田宗が最初である。 玉葉それ以外については、八代が上げたたもの全てが、今日でも『吾妻鏡』の原史料とされている訳ではない。例えば八代国治は『玉葉』からも引用されているとするが、何処かというと、『吾妻鏡』の下記の条の引用部分の後に続く「院奏の折紙状」の部分である。
その院奏が『玉葉』の同年12月27日条に同一のものが出てくるのだが、両方とも非常に長いもので、『吾妻鏡』の引用の中では一番長いのではと思うぐらい。八代国治は『吾妻鏡の研究』(p81〜p90)で、上に『吾妻鏡』、下に『玉葉』と対比させているがそのボリュームは10ページ弱にもなる。 引用部分だけでも解るとおり、この後に続く「院奏の折紙状」の内容は、鎌倉側にとっても、朝廷側にとっても非常に重要な節目であり、これが特別に幕府に保存されていたと考えることは決しておかしくはない。八代はなぜ『吾妻鏡』のこの部分の原史料を『玉葉』としたのか。 そのことについて八代国治は、あるいは『吾妻鏡』にあるものは幕府の政所に残っていた案文の下書き、あるいは写しで、九条兼実が日記に書き写したものが届いた正文かもしれないが、『明月記』の例もあるので同様に類推したと述べている(『吾妻鏡の研究』 p91)。 その「類推」はいくら何でも勇み足に過ぎるだろう。だいたい当時(八代の頭にあるのは1260年代から1304年の間である)の幕府の文士が、『玉葉』を目にすることなど出来ただろうか。そもそも存在すら知らなかった可能性すら高い。 平田俊春氏はその論文「吾妻鏡編纂の材料の再検討」(『日本歴史』 486号、1988年)で八代氏の論拠を妥当でないとし、幕府政所にあった案文に拠ったのであろうという推定、かつ吾妻鏡の編纂材料に『玉葉』が存在しなかったと結論ずけ、以降それが定説の様になっているそうである。 平田俊春氏が指摘したのはかいつまんでいうと、『明月記』の場合は地の文に織り込まれており、しかも八代が発見しただけでも14ヶ条に及ぶ。それに対して、『玉葉』とされるものは僅かに1通の引用である、『明月記』とは一緒にできない。むしろ八代が、同一のものが柳原伯爵家所蔵文書(後塩原文書)に同一のものが発見されている『吾妻鏡』文治2年4月30日条の「天下政道の書状」を、幕府政所に残された案文によるものと判断したケース(八代 p76-78)に近いのではないかというものである。 しかしその意見にはつい最近(2006年)の思いっきり強烈な逆見解「 吾妻鏡と玉葉」がある。 天台座主記その他天台座主記八代はまた、1184年(元暦元)7月2日条には『高野山文書』が、1203年 (建仁3)9月17条は『天台座主記』、そして1214年 (建保2)4月23日条、1235年 (嘉禎元)7月27日条の「今日」以降は『華頂要略』に同様の記述を発見する。 『天台座主記』、『華頂要略』についても、それ自体が後世の編纂であるので、直接参照されたのでなければ、『天台座主記』等の編纂に用いた根本資料を『吾妻鏡』でも参照したのかもしれないと八代自身もいう。益田宗は1971年の「吾妻鏡の本文批判のための覚書」において、『天台座主記』を『吾妻鏡』の原史料として検討の俎板に乗せることの難しさを述べている。というのは『天台座主記』は一度成立してからも順次改編増補され、それぞれに異文を含んだ諸本があるため、まったく同じ行文があっても、どちらが元なのかを判定出来ないためである。 平家物語『平家物語』『源平盛衰記』についても、それを直接か、あるいは両書とも同一資料(原平家物語)から起こしたものだろうとする。このうち『平家物語』から直接、ということについては現在では否定的であるが、八代自身は「直接」とは言い切ってはいない。 海道記紀行文の『海道記』はどうか。八代国治氏は『海道記』からの『吾妻鏡』への流用に関してその作成年代をp130で述べている。八代国治氏が指摘したのは承久3年7月13日条であり、それが『海道記』の「一三 蒲原より木瀬川」での「木瀬川の宿に泊りて萱屋の下に休す。ある家の柱に、またかの中納言(宗行卿の御事なり)和歌一首をよみて一筆の跡をとどめられたり。」の下りである。 京からの旅人である『海道記』の著者が伝え聞いた、駿河国の木瀬川での和歌に絡む昔の話しなので、和歌とともに広く知れ渡った話しだろうし、『吾妻鏡』では黄瀬河、『海道記』(全文はこちら)では木瀬川でもあり、『海道記』を直接参照したとまで言えるかどうかは微妙である。ただ、『吾妻鏡』でのその記述は例によって「前文」の後に「今日」から始まる別の話なので、地の文(鎌倉幕府関係者の筆録とか)にあったものではなく、『海道記』かどうかはともかく、編纂時(1300年頃か)にその類の巷の資料から付け加えたものであろうと想像出来る。 六代勝事記『六代勝事記』については、八代は触れていないが、これも平田俊春氏の「承久役に関する吾妻鏡の記事の史料について」(1939年4月『歴史地理』73編7号−後「吾妻鏡と六代勝事記」『吉野時代の研究』 山一書房 1943年収録)など『吾妻鏡』の特に承久の乱の原史料とする説もおこる。益田宗氏は「吾妻鏡のものは吾妻鏡にかえせ―六代勝事記と吾妻鏡―」(『中世の窓』7 1960年)によって、逆に『六代勝事記』の方が『吾妻鏡』ほかの抄約に過ぎないのではないかと主張しているが、平田俊春氏はそれに反論。しかし両氏の前後のものは読んだが、直接の論争にあたる論文は手に入っていず、争点は私には不明のままである。 「吾妻鏡と六代勝事記」が収録されている『吉野時代の研究』を入手して読んでみた。書いた時期が時期ということもあろうが、もの凄い皇国史観な人のようである。この時代は鎌倉史研究自体が圧迫された時代だということを思い出した。そういう底流の中で『吾妻鏡』より『六代勝事記』の方が史料価値は高いと言っているだけのような気がする。 その平田俊春氏が『玉葉』との関係を論じたという「吾妻鏡編纂の材料の再検討」が気になって『日本歴史』 486号を取りよせたが、そちらはとても参考になる。そしてそのなかで平田俊春氏は自分の反論に対して益田氏からの再批判はない。よって『六代勝事記』は『吾妻鏡』の原史料として益田氏にも承認されたのであろうと述べている。 十訓抄また、これも八代の指摘ではなく、五味文彦氏の指摘だが、『十訓抄』なども二階堂行光の顕彰記事に利用された可能性がある。しかしこれも可能性に止まる。 現時点での吾妻鏡編纂の材料1988年平田利春氏の「吾妻鏡編纂の材料の再検討」(日本歴史11月号第486号)に上がっているものを参考までにあげる。 頼朝将軍記東大寺文書、高野山文書、鶴岡八幡宮文書(平田氏が補強)、 実朝将軍記『明月記』、(野口武氏が2箇所追加、益田宗氏が1箇所追加し17箇所) 頼経将軍記『六代勝事記』(平田氏が主張) 『海道記』 頼嗣将軍記『飛鳥井教定記』 (佐藤進一氏が『史学雑誌』 1952年61-9号に、目次の無い1ページ弱で書かれたもの。益田宗氏、平田俊春氏は肯定的) 2008.3.20〜4.28、8.27、9.05-10 、9.18-20 、9.23 2009.3.4 追記 |
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