5.1 吾妻鏡の曲筆 |
|
吾妻鏡の誤謬と曲筆「編集方法と記事の特徴」で触れた編集者の意図しないミス、用いた史料からの誤謬、そして意図的な曲筆と顕彰が混じっていることを意識しておくことは、『吾妻鏡』を歴史資料として利用する上でもっとも注意しなければならない点ある。その点を見誤ると鎌倉史そのものを見誤ることになるというのが原勝郎や八代国治の警鐘であったことはこれまでに見た通りである。 ただし何処でその曲筆が入り込んだかについては、八代国治は編纂者を強く意識したが、益田宗氏ら、1970年代以降の研究では少しニュアンスが変わってきている気もする。確かに編纂者の手によるものもあるが、一方で編纂者が手にした原史料の中に、既に相当の曲筆が含まれていたのではないかというものである。 ここでは、後世のおそらくは京系史料を原因とする事実誤認と、有力御家人の家伝からと思われる創作、及び先祖顕彰、そして曲筆として有名な2例、最近指摘された1例を紹介する。 後世史料による事実の誤認しかし、その時期の史料としての信頼性はどうか。源平合戦については、鎌倉が直接関与する部分と、そうでない部分に情報の正確さには相当の開きがある。特に木曽義仲の北陸での動向などは、当時の鎌倉には断片的に、かつ相当遅れてしか情報は伝わらず、ほとんどの部分については、かなり後の京都近辺からの資料により補っていると見られる。例えば『吾妻鏡』の記述にこうある。
『吾妻鏡』と同じく後年の編纂である『百錬抄』にも、このときに「義仲追討の宣旨が出された」との記載があるそうだが、同じ事件についてリアルタイムで、本当に公家の日記に書かれたものではこうである。
木曽義仲の名は無い。「吉記」8月15日条、翌8月16日条にも、「玉葉」9月9日条、翌9月10日条
同じ日についてのリアルタイムな日記では
「信乃の国逆徒」とはあるが、木曽義仲など名前すら知らなかった可能性もある。後世の編纂である『百錬抄』や『吾妻鏡』は、その後木曾義仲が北陸道から京に攻め上ったことから、北陸での戦いは木曾義仲の進路を塞ぐ為との刷り込みがあり、そのための編者の誤解であろうと上杉和彦は『源平の争乱』 p124(吉川弘文館 2007年)で指摘している。 貴族の日記は、例えば15日条はその翌朝に前日の事を書く。また例えば『玉葉』9月9日条に「この事一昨日聞く所、忘却し今日これを記す」とあることからも本当にリアルタイムと見なしてよい。しかし『吾妻鏡』の日付はそれとは明らかに違う。 『吾妻鏡』1181年(養和元)9月4日条に書かれた越前国水津の戦いのとき、木曽義仲軍はまだ越前には至っていない。越前国水津の戦いは3日後の9月7日(あるいは8日)に京へ伝えられたが、それを記した『玉葉』の記述では、相手は義仲ではなく「越前・加賀国人」である。
今から見れば、平家に立ち向かったのは源頼朝と木曽義仲だが、実際には当時全国で平家支配に対する蜂起が起こっている。西国の九州でも、また熊野でも、京の近くでは近江でも起こっている。比叡山や三井寺、興福寺などもそうである。「源氏対平家」ではない。京の公家の日記に初めて義仲の名が登場するのはそれから2年後の『玉葉』1183年(壽永2)5月16日条が初見である。 『吾妻鏡』同様の誤りを犯している『百錬抄』の写本のひとつに、1304年(嘉元2年)に金沢貞顕が吉田定房の本をもって校訂した金沢文庫本系のものがある。確証は無いが、この「同様の誤り」は『百錬抄』から伝搬した可能性も否定出来ないし、あるいは『百錬抄』編纂に用いた史料を『吾妻鏡』もまた用いたのかもしれない。 鎌倉とは関係無しに行われていた合戦については以上に見た例から押して知るべしである。ただし、北条氏の為の曲筆の必要の無い部分、例えば奥州合戦などについては非常に詳細であり、信頼度は比較的高い。これについてはまた後で触れる。 初期御家人の明暗−または諸家の伝承上総介広常北条氏がらみではないが、頼朝の挙兵直後、まだ鎌倉へ入る前に房総の大武士団を率いて馳せ参じ、その後明暗を分けた御家人に上総介広常とその同族千葉常胤が居る。上総介広常は頼朝が梶原景時に殺させたが、その理由は『吾妻鏡』では明らかではない。おそらくは編纂者も知らなかったのだろう。 『愚管抄』には頼朝が後白河法皇に語った内容が書かれているが、慈円自信あまり信じていないようである。 ただし、『吾妻鏡』には上総介広常は後に殺されることを予感させるような人物像として描かれる。上総介平広常は千葉介常胤の様な源家に対する忠君の士ではなかったと。粗暴な男だったと。その最たるものは上総介広常が初めて頼朝に会ったときの話しである。
二万騎もあり得ないが、逸話そのものが『将門記』からの焼き直しである。上記の引用の後にその『将門記』の逸話が続く。経験的にこういう場合は文飾がほとんどなのだが、だいたい広常が内心思ったことを何故編纂者が知り得たのだろう。その前に上総介広常が挙兵以前の彼の立場はどうだったのか、駆けつける前に上総国で何をしていたかを考えれば、どっちにつこうかなどという選択の余地はもう無いことは明らかである。これは「物語」を面白くするための後世の作文に過ぎない。 尚、このとき上総介広常が率いてきた軍勢は『吾妻鏡』では2万騎とあるが、『延慶本平家物語』には1万騎、『源平闘諍録』には1千騎であり『吾妻鏡』の誇張が一番大きい(上杉和彦『源平の争乱』 吉川弘文館 2007年 p79)。上総国の江戸時代初期の石高から鎌倉時代初期の石高を概算しても、『源平闘諍録』の1千騎(約3千名)ぐらいが実状に近いと推定される。それでもこの時代の1国からの動員としてはもの凄い数だ。 千葉常胤千葉介、上総介一族が、頼朝に加担したのは、『吾妻鏡』にいうような、両氏が累代の源氏の郎等であったからではなく、平家と結んだ下総の藤原氏、そして常陸の佐竹氏の侵攻に対して、頼朝を担ぐことによってそれを押し返し、奪い取られた自領を復活する為の起死回生の掛けであった。 千葉常胤の一族は頼朝の元に参じた時点ではそれほど大きいものではないが、直後に上総介広常が討たれた後、その所領の多くは千葉常胤のものとなったと思われる。その結果千葉氏は鎌倉時代を通じての大御家人となる。粗末にはあつかえない。その千葉常胤はどう描かれるか。これも実に有名な下りで、何故鎌倉かという話しには必ず引用される。「鎌倉は天然の城」だというのもここからである。
しかし千葉常胤にとっては、頼朝の父・源義朝は「御恩」を感じるような相手ではないことは相馬御厨での経緯を見れば明らかである。野口実編『千葉氏の研究』に収録されている「古代末期の東国における開発領主の位置」で、黒田紘一郎は、源義朝はその段階では棟梁などではなく、同じレベルで領地を奪おうとした形跡があるとする。千葉氏は(実はその他の大武士団も等しく)源家累代の家人ではない。 1180年(治承4)8月29日に「武衛實平を相具し、扁舟に棹さし安房の国平北郡猟島に着かしめ給う。」以降、10月6日の鎌倉入りまでは千葉氏に伝わる家伝書を参考にしたのではとすら思えてくる。実際その期間のことを書き記し、鎌倉時代末期まで伝えそうな家は千葉氏以外には考えにくい。そういえば「源平闘諍録」は千葉氏関係者により東国で成立したとする見解が有力となっているそうである。(服部幸造 「解題−『源平闘諍録』を読むために」 『源平闘諍録―坂東で生まれた平家物語〈上下〉』 講談社、1999年)。千葉氏には現在知られる「源平闘諍録」の材料となるような家伝があったのかもしれない。ただの推測だが、あり得ない話しではないだろう。 『吾妻鏡』 1192年(建久3)8月5日条は征夷大将軍となった頼朝の政所始めにおいて、それまで頼朝が花押を書いていた安堵状を回収して、政所発給の下文を新たに与えようとしたところ「常胤頗る確執」し、「政所下文と謂うは家司等の署名なり。後鑒に備え難し。常胤が分に於いては、別に御判を副え置」いて欲しいと主張して特別に頼朝花押の下文を貰ったとあり、特別に貰った頼朝花押の千葉常胤ベタ誉めの下文の文面が載せられている。以前は偽文書ではないかとも疑われていた条であるが、同様に小山朝政が特別に頼朝の花押付きの下文を貰ったその実物が発見されるに及んでそういう事実自体はあったらしいことが確認された。ただし小山朝政宛の実物と『吾妻鏡』に載る千葉常胤宛の頼朝下文はその文面があまりにも異なる。小山朝政宛の実物は極めて事務的な、安堵状らしいものであるに対して千葉常胤が貰ったという下文はあまりにも異様であり、そこからこの記事は千葉氏に伝わる先祖顕彰の家伝が『吾妻鏡』編纂に用いられたものと見られている。 ここまでは曲筆というほどのものでは無かったが、次ぎに「曲筆」の代表例とされる解りやすいものを2つ紹介する。 源頼家 (北条時政の弁護)2代将軍・源頼家はしょうもない馬鹿息子で、頼朝は世継ぎの育て方に失敗した、源氏が滅んだのはそのためだ・・・、と多くの人が思っているのは『吾妻鏡』からの印象である。しかしそれの実態は、藤原基経によって退位させられた陽成天皇の病弱退位説や暴君説。と似たようなものだろう。官製の歴史とはもともとそうしたものであり、決して『吾妻鏡』に限った問題ではないのだが。源頼家に関して曲筆とされる代表例を以下に見ていく。『吾妻鏡』にはこうある。
しかしこれは事実とは相違するというのは有名な話しで、京の朝廷には、9月1日に頼家が病死したという鎌倉からの使者が1203年(建仁3)9月7日早朝に到着し、実朝を征夷大将軍に任命するよう要請していることが近衛家実の『猪隅関白記』(「続御暦」とも)、藤原定家の『明月記』、白川伯王家・業資王の『業資王記』などによって知られている。頼家が存命しているにもかかわらずである。 比企能員の変は9月2日であり、鎌倉からの日数を考えると、9月1日か2日には鎌倉を出発していなければならないが、9月1日であれば、使者が発った時点で頼家や能員の殺害が決定していたことになる(石井進 『日本の歴史 7 鎌倉幕府』 p292)。2日であっても、戦闘が始まったのは午後の4時頃である。何れにせよ戦闘以前に使者が発ったのだろう。それよりもなによりも、頼家が殺されたのはそれから1年近く後のことである。『吾妻鏡』の1204年(元久1)7月19日条にサラリと書かれる源頼家 の修善寺での死は、『愚管抄』にはこうある。
大山喬平(小学館『日本の歴史』 9 鎌倉幕府 1974年)によると首に紐をつけ、陰嚢をつかんで刺し殺したということらしい。『承久記』、『松論(梅松論)』では北条時政の沙汰とし、『武家年代記』、『増鑑』では北条義時の指示とする。 そして八代国治は源頼家の末期、事件の直前の『吾妻鏡』1203年(建仁3)7月20日から8月27日条を挙げながら、特に8月7日条に「将軍家御不例太だ辛苦すと」とあるにも係わらず、その実・・・と下記のように書く。
「自筆の般若心経」の「文字生気に満ち」までは知らなかった。流石に星野恒もこればかりは「頼家變死ノ一事ハ曲筆ヲ免レズト雖・・・」としているのは先に見たとおりである。 畠山重忠 (北条義時の弁護)2つ目は、畠山重忠の件である。『吾妻鏡』では、北条氏を首謀者として追放された源頼家や梶原景時の悪行は著しく誇張されている。また、人望厚い畠山重忠を追い落とした人物は時政の後妻で悪名高き牧の方であり、北条義時は畠山重忠の謀殺に反対して父時政に以下のように熱弁をふるう。
歴史小説として吾妻鏡を読む者はともかく、歴史資料としてこれを読む研究者でこの記述を鵜呑みにする者はいないだろう。これはその後北条政子と北条義時が父時政を追放したという「背徳」を正当化する伏線となっており、八代国治より前に、原勝郎もこれを評して以下のように述べている。
*孫子(そんし)の兵法の一つ。『孫子・九地』に「始めは処女の如くんば、敵人戸を開く。後は脱兎の如くんば、敵拒(ふせ)ぐに及ばず」とある。 あまりに多すぎるのでひとつひとつの事例は紹介できないが、畠山重忠の他に、和田義盛、比企能員も北条氏に滅ぼされたものであり、いまさら理由の説明はいるまい。梶原景時は北条氏だけにではないが、北条氏もそれを滅ぼした側であり、『吾妻鏡』からその真相を探ることは不可能である。 ここらへんから北条氏悪玉感が世間に蔓延してくるのだが、しかしそれは比企氏も三浦氏も北条氏も同じ条件下で生き残りを掛けて戦っていただけで、たまたま勝ち残ったのが北条氏だったということかもしれない。またこれは、『吾妻鏡』の編纂者が事実関係を知っていて、それでもなお事実を隠蔽し、それを曲げて書いたというより、むしろ編纂時点(現在の定説では約100年後)にはそう伝えられていたという可能性の方が大きい。しかし以下に引用する後白河の院宣はそれとは話しが違う。ここには明らかに編纂者自身の曲筆が感じられる。 文治2年5月6日の院宣(時政の顕彰)最後のひとつは解りやすいとは言えない。これが指摘されたのはつい最近である。 文治2年と言えば、対平家の戦乱が終わり、鎌倉の頼朝と京の後白河法皇の間のいわば政治闘争、外交交渉が熾烈に行われた時期であり、その中で鎌倉幕府の位置づけが形作られていく時期でもある。この時期京都での北条時政は大活躍である。しかし元「中世の窓」同人・龍福義友氏は5月6日の院宣の文面自体を詳細に検討されて、この中に時政顕彰の為の捏造が混じっているとする。その院宣の部分を行を分け、問題部分を色分けして以下に引用する。
ここに出てくる「去月廿日の御消息」については「付論3」の方で扱うが、『吾妻鏡』の同日条は編纂者の創作であることが九条家に伝わる「去月廿日の御消息」の実物から知られる。 上記5月13日条の割書に「使は侍為頼なり」とあるが、この為頼はその「去月廿日の御消息」(源頼朝の院奏)を5月4日に京の師中納言吉田経房の元へ届け、「其の便りに付し、此の旨を仰せ遣す」とある通り、その返事である5月5日の院宣(5月18日条)を持って鎌倉に向かっているはずである。「去月廿日の御消息」は飛脚ではなく、2週間もかけて京に届けられているのだから、その返事は同じ使者・為頼が受け取り、鎌倉に運んでいるはずである。そしてそれはやはり2週間ぐらい掛かって5月18日に鎌倉に届けられている。 推定されるのは、編纂者の手元にあった原史料はかなり乏しいものであり、その断片的な史料を編纂者に理解出来る「筋書き」の中に納める為に、欠けている部分を想像で補い、そのときに北条氏に対する顕彰の為の曲筆も加わったというものだろう。 そう見なす理由については龍福義友氏の論考「文治二年五月六日院宣の信憑性」を読んで欲しい。ここではその龍福氏の結論だけを紹介する。
確かにカッコ良すぎるなぁとは思いはしたが、それよりも私は「時政って結構外交手腕は凄かったんだなぁ」という感想の方が勝ってしまっていた。しかしこれはもう顕彰というより完全に曲筆だろう。 尚、「文治二年五月六日院宣の信憑性」は「補論」であり、本論は吾妻鏡の虚構一考─文治二年三・四・五月の公武交渉を素材として─(未定稿 上) 、(同下)である。同時期の一連の問題について論じたものだが、本論については別に付3.龍福義友氏の「吾妻鏡の虚構」 としてまとめた。 2008.3.20〜5.23、8.29分轄、9.08、9.20 更新、9.23 「後世史料による事実の誤認」を移動、 |
|