7.2 「吾妻鏡」編纂の意図(改訂作業中)

  1. 吾妻鏡・明治の研究 AZM_20_07.jpg
  2. 吾妻鏡・大正期の研究(八代国治)
  3. 吾妻鏡の構成
  4. 吾妻鏡の原資料
  5. 吾妻鏡の曲筆と顕彰
  6. 吾妻鏡の編纂時期と編纂者
  7. 編纂の背景と意図
    1. 『吾妻鏡』編纂の背景
    2.『吾妻鏡』編纂の意図
     −時宗の死と新御式目・得宗専制
     −吾妻鏡の意図
     −得宗貞時と得宗体制の対立
     −中心の喪失と幕府の崩壊
  8. 歴史資料としての価値

 

『吾妻鏡』編纂の意図

五味文彦氏がその著の最後に述べるように、平安時代の後期、院政期頃にすこしづつ形を成してきた所謂「イエ」の概念が、更に家格の形成、家業・家職の固定化として京の公家社会から進んでいき、本当に固定化されて、前段階の「イエ」から「家」に脱皮したのがこの時代ではなかったか。

そしてそれがそのまま、鎌倉政権の中にも浸透し、得宗家の確立、それを取り囲む共同利益集団の北条庶流の家格の形成、同時に文筆の家でもそれに似た、あるいはそれ以上の家格の形成・家職の固定化が進んでいった様が例えば三善氏、二階堂諸氏の中にも見ることが出来る。最も顕著なのが、そしてそれ故にもっとも家格・家職争いが熾烈だったのが政所執事の二階堂氏だろう。

家業・家職の固定化は、前例重視、京の貴族社会で云えば「有職故実」の世界である。前例が重視されてきた実例をひとつ見てみる。京へ送り返された3人の元将軍が御所を出るとき、4代将軍であった藤原頼経の1246年(寛元4)6月27日条、5代将軍であった藤原頼嗣の1252年(建長4)3月21日条、そして『吾妻鏡』最後の将軍である宗尊親王の1266年(文永3)7月4日条でも、共に御所を出てから一旦佐助の北条時盛の屋敷に入り、宗尊親王以降は4〜5日後にそこから京へ出発する(宗尊親王の鎌倉出発は『吾妻鏡』には無いが京の記録にある)。その宗尊親王の子の7代将軍惟康親王の帰京は『とわずがたり』に描かれており、やはり一旦佐助ヶ谷に行きそこから京へ出発するが、将軍を御所から出すときに「先例だから」と逆輿(さかさごし)にして将軍を乗せたとある。

平安時代の中期から末期の朝廷同様この時代の鎌倉幕府でも「前例」が重視されていく。益田宗は「吾妻鏡の伝来について」において、逆輿だけでなく将軍を廃するときの一定の慣行が既に確立していたのではないかとする。(p317)

先に「家業・家職の固定化は、前例重視、京の貴族社会で云えば「有職故実」の世界である」と書いたが龍福義友氏が1977年に『論集中世の窓』に寄せた「平安中期の≪例≫について」という論文がある。そこで龍福氏は、少なくとも平安中期、道長や藤原実資の時代には「例」は個人の判断基準とはなっていないのだが、しかし判断、決定を共有する為だけに非常に重視されたことを説かれている。おそらく鎌倉幕府においても北条時宗までは「例」はそれほど重要ではなかっただろう。例えば泰時は貴族社会の「例」重視に対して「道理」を前面に押し出す。時宗はほぼ独裁体制をひいており「前例」による「判断の共有」などは考慮する必要は少なかっただろう。しかしその時宗が没した後の寄合では「前例」踏襲がその合意に大きなウエイトを占めただろうことは容易に想像出来る。

政策のようなギリギリの決断を要すること以外の儀式での前例はその時代でなくとも重要であったろうし、そう考えてみると我々の目に「つまらない」後半も、当事者達にとっては非常に重要な情報であったのかもしれない。そうした幕府中枢の官僚の実務的な要請を背景として、北条貞時政権の担い手(寄合衆)達、特に文筆の家の者(鎌倉幕府のテクノクラート)が中心となり『吾妻鏡』が編纂されたのではないだろうか。

もうひとつの側面

もうひとつの側面は明確に意図したことでは無いかもしれない。しかし編纂者のおかれる状況が無意識のうちに編纂に現れてくるといったものだろう。まず当時の編纂者達の置かれた状況を振り返ってみよう。

嘉元の乱の前年、1304年以前までに進められていた『吾妻鏡』の編纂は、1302年から1304年にかけての、得宗家を取り巻き、幕府を支えていた寄合衆達が、それぞれの家と家職の正統性、それが得宗家と共に鎌倉幕府を支えてきたことの主張ともとることは出来ないであろうか。

とここまでは五味文彦氏説の編纂年推定を更に絞り込んでみただけである。

時宗の死と新御式目・得宗専制

1284年(弘安7)4月4日に北条時宗が34歳の若さで病死する。このとき嫡男貞時は14歳(今で言えば13歳?)である。家督は継いでも幕府というそれなりの巨大組織をコントロール出来るとは誰も思わない。そして5月28日に「新御式目」38ヶ条が策定される。五味文彦氏はそれを「時宗の死という重大な局面において、幕府内部に走る危機感と動揺なのか、貞時の下に結集して新たな体制の構築が図られた。それがこの法令に結晶させられた・・・」(『増補吾妻鏡の方法』 p222)という見方を示す。このこと自体に反対する研究者は今は居ないのではないだろうか。

頼朝というカリスマ的リーダーを失った後に、それでも鎌倉政権、関東の秩序を維持する為に長老達による合議制が始まった。それが後に評定衆となる。そして今、カリスマか、ただの独裁者かどうかはともかく、良くも悪くも元寇を乗りきったリーダー・北条時宗を失った鎌倉幕府、と言うより北条時宗の下で鎌倉政権を運営していた外戚、御内人、有力北条庶流らが、実質得宗不在の中で政権と秩序を維持する為に作り上げた新体制が世に言う「得宗専制」体制ではないだろうか。(蛇足参照)

その「得宗専制の実態」とは何かというと、「新御式目」38ヶ条を立案・合意した側、つまり得宗家外戚、御内人のトップ、有力北条庶流だろう。それが「寄合衆」による幕府運営である。それは鎌倉政権という安寧秩序の維持であると同時に、当然ながらそれぞれの家の地位と権限の維持・向上である。

「得宗専制」と言われた時代に、本当に得宗は、貞時は、高時は「専制」を振るえたのだろうか。そうした「得宗専制」の実態たる得宗周辺諸家の権勢を排除しようとしたのが成人した貞時ではなかったか。その時代に見えてくるものは本来の得宗貞時と、「得宗専制」の実態との抗争であり、そして得宗貞時の敗北ではなかったか。

吾妻鏡の2つ目の意図

ここからは「独自見解」になる。「独自見解」というのは決して独創的というのではなく、出典を示せない独断で、それゆえに某百科事典には書けないというだけである。プロの研究者から見ればただの不器用な寄せ集めだろうが、ともかく書いてみよう。

それを『吾妻鏡』に引き付けてまとめ直せばこうも言える。
1300年前後、北条得宗家の寄合衆を実態とする鎌倉幕府は、専制の頂点を極めつつもその進むべき道が見出せなくなっており(岩波講座『日本通史』巻8 通史 村井章介 p51)、そうした時代に、『吾妻鏡』が編纂された。それは北条貞時政権の担い手(寄合衆)達が、自分達のよって立つ鎌倉幕府の成立期として源氏三代の頃、北条得宗家体制の成立期として北条泰時北条時頼の時代を回顧し、そしてその中でそれぞれの「家」の成立、形成を示しながら、得宗家周辺、寄合衆のメンバーの結束を願っていた。そして『吾妻鏡』にまとめた自らの家の正統性を、鎌倉政権での家格を主張する相手は、外ならぬ得宗貞時だったのではなかろうか。決して世間に対してでも、御家人層に対してでもない。

そしてその中で、それぞれの「家」の成立・形成をも示しながら自分達の寄って立つ鎌倉幕府の源氏三代の時代、北条泰時、北条時頼の時代を回顧されていく。『吾妻鏡』から数年後の「平政連諫草」がその拠どころとしたのもやはり頼朝、義時、泰時、時頼の時代であったことも思い出される(安部猛 『鎌倉武士の世界』 p168)。

得宗貞時と得宗体制の対立

しかし、その熾烈な家格・家職争いの引き金になったのが、北条貞時の平禅門の乱以降の人事の迷走と、嘉元の乱に致るまでの自己への権力集中、北条庶流の家格・家職の否定だったのではないだろうか。そういう仮説でこの『吾妻鏡』と嘉元の乱を見直すと。これまでの定説とは違ったものが見えてくるかもしれない。

こうなるともう全くの妄想に近い推論で、一切責任は取れないが、『吾妻鏡』編纂の意図は、単純に北条得宗家代々を讃えることにあったのではなく、北条得宗体制はそれを支える自分達北条庶流や、文筆の家(テクノクラート)が一体となって支えてきたものであること、その秩序が鎌倉政権・鎌倉幕府だと主張することにあったのではないだろうか。そしてその中心は北条庶流の長老で、おそらくは得宗貞時ともっとも対立していた北条時村であったのではないだろうか。時村の父、北条村政の関係が『吾妻鏡』の中で妙に目に付くのである。

そして北条時頼の代に完成した北条氏体制の旧守派にして北条庶流の代表者・北条時村は貞時にとって目の上のタンコブである。それを取り除こうとして北条庶流の猛反発に合い、腹心で従兄弟にして義弟の北条宗方を討ち取られ、連署と寄合衆の主導権を、時村に次ぐ旧守派北条庶流のリーダー・大仏宗宣に取られてしまい、以降貞時は酒に現実逃避して酒に溺れていったと仮定すれば、この間の様々な動きが説明できないだろうか。

嘉元の乱の前年、または前々年で『吾妻鏡』編纂が完成を見ないまま終わりを迎えたということは、旧守派北条庶流と得宗貞時の対立が、すでにそんな悠長な段階ではなくなったということではないのか。そして『吾妻鏡』編纂に込められた願いはついに嘉元の乱であえなく打ち砕かれる。旧守派北条庶流があるべき姿とした、北条時宗の時代の体制(それは得宗家を盟主とした北条庶流主流派の体制)自体が内側から崩壊する。得宗個人は将軍と同じように御神輿となって内管領平頼綱を思い出させる長崎高資 と、外戚の安達時顕がが得宗家と幕府を支配する。

中心の喪失と幕府の崩壊

大塔宮護良親王令旨に「伊豆国在庁時政子孫高時」と蔑まれた北条得宗家の王朝家格では決して武家の長者には成れず、ただの飾りでも将軍を必要とした。

それだけでも歪な権力構造が、更にその北条得宗自体がただの飾りに近くなったことが誰の目にも、特に鎌倉幕府の本来の地盤であった御家人の目の前に明らかになってゆく。ゼードルマイヤーではないが「中心の喪失」である。その不満が『保暦間記』に伝えられる遊び惚ける北条高時像、そして悪役長崎高資像となって表されたのではないだろうか。

その御家人達は分轄相続制により自ら零細化をたどり、一方では貨幣経済の浸透という社会経済の構造変化の中で追い詰められていた。「悪党」はその結果である。惣領制の下での惣領権は、一族の利害が一致して初めて求心力となるが、見返りの無い負担だけの惣領の統制には誰も従わず、一族は分裂していき、公事もままならない状態に追い詰められている。

北条得宗家(その実御内人と外戚)は守護職や所領を急激に増加させていったが、それは私利私欲というより、そうしなければ幕府自身の公事、朝廷への奉仕もままならない状態に追い詰められた結果だろう。「拡大しつつ閉塞していった」という本郷恵子氏の一言はその状態をうまく言い表しているように思う。そうして1333年の滅亡を迎える。

『吾妻鏡』編纂の中心とも目され、『永仁三年記』の著者でもある大田時連はその時代を生き抜き、「武家宿老故実者」として室町幕府にも仕え初代室町幕府問注所執事となった。大田時連はその時代をいったいどう振り返ったのだろうか。

蛇足

「得宗専制」成立の研究史では、佐藤進一氏を始め1285年の「霜月騒動」によって成立とする論者が多いようであり、1284年(弘安7)の「新御式目」を起点とするのは五味文彦氏だけのようである。そしてその五味文彦説のポイントを秋山氏は「安堵と理非の権限の獲得」と要約される。五味文彦氏は1988年の「執事・執権・得宗」(『増補吾妻鏡の方法』収録)において確かにそこを主眼とされている。

しかしここでは、それよりもむしろ実質得宗不在の中で、若き得宗貞時を囲む、細川重男氏が言うところの「特権的支配層」の合議体制の成立し、ワンマン時宗の果たしていた役割を担った段階。それにより得宗個人は御輿となった段階が、世に言う「得宗専制体制」の段階として理解したい。

しかしどこが「専制」なんだろうか? 本来の「専制」などそこには無いではないかというのも最もな話しである。強いて言えば、執権も評定衆も将軍を頂点とする幕府の役職であり意志決定機関であったが、その幕府から「得宗家」という看板の下に寄合衆が意志決定機能を取り上げ、幕府はその意志決定の執行機関に成り下がってしまったと言えるのではないだろうか。無理矢理の感はあるが、幕府に対する得宗家(寄合衆であって得宗個人ではない)の専制と言えば言えないこともない。ここに至って原勝郎が「吾妻鏡は官府の書類か」で問題とした「北條家之左右執文筆者」は「鎌倉幕府の吏人」と完全に一致するようになったと。

2008.3.20〜5.25、9.13分轄、10.13改訂開始