9. 吾妻鏡の諸本 |
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系統吾妻鏡は金沢文庫にあった原本が、小田原の後北条氏の手に渡り、それが徳川家康の手に渡ったと思われやすい。100年ぐらい前はそう思われていた。しかし何十年も前からそれは否定されている。ではどういう経路をたどって我々の元へ伝わったのか。 八代国治の説(1913年 p43)ではその系譜は2グループあり、北条本、黒川本、京都図書館本などは応永年間(1394〜1427年)に金沢文庫本により書写されたものの系統を引き、吉川本はそれとはまったく別系統の関西伝来本とした。関西伝来本にはほかに島津本、前田本、伏見宮家本も含めている。 その関西伝来本の出所だが、編纂者の候補として最も有力な太田時連は鎌倉幕府滅亡後、室町幕府に仕えて、その日記『永仁三年記』(と五味文彦書には『永仁四年記』とあるがの誤植?)は太田の家に伝えられ、やがて室町時代に加賀前司町野淳康が継承したという。それらのことから太田時連とともに京に行ったものが、その日記同様に室町時代に他家の所持に移り、吉川本の元となったのかもしれないと推測する向きもある(五味 2000年 p314)。 一方、これも『吾妻鏡』編纂者のひとりとして考えられる二階堂氏の古文書には、15世紀末に「吾妻鏡以下古記明鏡之次第」を写し送ったとある。この記録にははっきりしないところもある(後述)が、しかし魅力的である。八代国治のいう関西伝来本には更に2系統に分かれる? 蒐集の経緯が奥書に記されている吉川本では、1501年(文亀元)頃、『吾妻鏡』の写本42帖を手に入れることが出来たが、尚その間に20数年分の欠落があったという。あとでまた触れるが右田弘詮(陶弘詮)はその欠けている部分を必死に集めた。 いわゆる北条本系では徳川家康がある時点で48巻まで集めていたが、現存する原本を見ると、楮紙の古い料紙の32+10冊以外は後から補ったもののように見える。家康が蒐集のベースとしたものがその42冊なのかどうかもわからない。そして右田弘詮(陶弘詮)が最初に手に入れた写本42帖、あるいは家康の下にあった楮紙の古い料紙の32〜42冊がひとつの写本から書き写されたものである保証は無い。その段階で既に寄本、つまり別系統の複数の写本から編纂したものかもしれない。 しかし益田宗氏らの研究によれば、所謂北条本ですら金沢文庫本系と言い切れるのかどうかが怪しくなる。和田英松・八代国治以降、現在までの研究では、吾妻鏡は早くに散逸し、室町時代には既に揃いの完本の形では伝えられておらず、断片的な抄出本や、数年分の零本の形で伝わるものがほとんどであったのではないかとされる。それらを集めて補訂が行われたものが右田弘詮、徳川家康の手に渡り、そこで更に欠損分の収集が行われて、48巻、あるいは51巻という形に復元されていったということになる。(益田 p331) 要するに、元の系統が2系統3系統あったとしても、ちょうどポーカーのカードのようにシャッフルされて配られたものから、更にほかのカードを集めて補訂していった複数の版が研究者の目の前にあるという訳だ。ハートの13枚の内10枚までを一括して手に入れた者など居ない。そしてそれらの中から研究者が苦労をしてノイズを取り去り、1冊(ではないが)にまとめたものが、新訂増補国史大系版 『吾妻鏡』である。 巻首の目録一般に『吾妻鏡』は52巻からなると言われる。それは北条本にも島津本にも毛利本にも、伝聞では黒川本にもあり、若干は異なるところがあってもほぼ以下のように全52巻の目次と各巻の収録年次が記されている為である。45巻が無いというのも、この目録には「四十五卷 建長七年(乙卯)」と書かれているからである。(尚黒川本は巻数は異なり、略2冊を1冊にまとめたかのようである。この段階では吉川本にはわざと触れない。)
この目録には各巻の年次のほかに系図、執権次第、記録なども含む。 そして後に触れる黒川本の目録部分の終わりに「応永十一年(甲申)八月二十五日以金沢文庫御本書畢」とあったという。応永11年とは1404年である。また北条本の該当部分は破れて修復されていたが「応永十一年(甲申)八月」の中の「甲の字の右方上部の墨跡歴然」(八代 p28 かなりきわどい推測だと思うのだが)であることから、北条本(及び黒川本)全体が金沢文庫本から応永11年書写本の系統を更に書写したものだと思われていた。北条本(及び黒川本)全体ということについては現在では否定的だが、少なくともこの目録部分の元は1404年に金沢文庫の蔵書から書写したものであることは確かだろう。かなりきわどくても。 ではそれが、最初から『吾妻鏡』の巻首に、今見る形、またはそれに近い形で編集されていたのだろうか。各巻には本当に通しの巻数がふられていたのだろうか。これまでに研究者の手によって明らかにされてきた『吾妻鏡』の成り立ちからすればそうではなかったとの見方が有力である。だいいち目録部分の終わりに「応永十一年(甲申)八月二十五日以金沢文庫御本書畢」とあるのならそれは目録部分にのみかかるものではないのか。 益田宗氏は「吾妻鏡の伝来について」の中で、目録は本巻とは別に南北朝時代頃に金沢文庫で作られた単行本で、そのとき文庫に収蔵されていた『吾妻鏡』の目録の形で作られたものが、後から系図、執権次第、記録などが追記されていったものではないかとする。それが右田弘詮(陶弘詮)や、徳川家康が、あるいはそれ以前に同じようにバラバラになった『吾妻鏡』を捜し尋ねて集積していった人達が、集積部分を1本の写本にまとめる際に、本巻の冒頭に編集して全体の総目次のようにしてしまったのではないかと。少なくとも編纂時には無く、相当(数十年の範囲だが)後に金沢文庫で作成されたとしか思えないはっきりした理由は以下の部分である。
巻26の最後元仁元年(1224年)から、巻27の始まり安貞二年(1227年)の間の3年分がこの目録には無い。3年分はその年代ではほぼ1巻に相当する。しかし巻数はそれを無視して巻26、巻27と続く。この3年間は編纂者が何らかの、しかし明確な意志をもって最初から編集しないと決めていたのだろうか。そんなことは無い。現に吉川本ではその嘉禄元年(1225年)〜安貞元年(1227年)の3年分が1冊を成している。島津本にもその間の嘉禄元年〜安貞元年分があり、あとでまた触れるがその差分が1668年(寛文8年)に『吾妻鏡脱漏』として、更に翌年『東鑑脱纂』として木版で出版された。 それらの事から推測すると、その目録の編集当時、金沢文庫には建長7年分の一冊が現存しており、それで巻45という巻数がふられたが、嘉禄元年(1225年)から安貞元年(1227年)の3年分1冊は既に無かった為、巻数がふられなかったということになる。前後の関係から、そのとき存在していたとすれば1巻を構成していただろう寿永2年、建久7、8、9年(この分は頼朝期の最後であり、将軍期毎の編纂とすれば、編纂が永遠に中断された時点で未完成だったのかもしれない)、正元元年、弘長2年、文永元年その他、年単位で欠けている12年分を巻数が飛ばしていく合理的な理由が見つからない。 吉川本は1巻の範囲は大体北条本の目録にある巻と一致するが(しないところもある)、右田弘詮は便宜上巻数をふったが、欠けている年もあるのでこれを受け継いだ者が、欠落部分を新たに手にいれることが出来たら、巻数はふり直すようにと記している。北条本目録の巻数もそういうものだったのではないか。ただし、それ以降欠落部分が見つかるどころか、どんどん欠落四散していったようだが。 以上から、全52巻という話しは、『吾妻鏡』の編纂時のものではないということが確認される。そして、『吾妻鏡』の欠損は、もっとも恵まれていたはずの、おそらくは原本のひとつ(編纂者間の写本は原本として)が直に伝わっていただろう金沢文庫においてすら始まっていたということになる。現在想定されている『吾妻鏡』の編纂最終年から応永11年(1404年)まで100年。益田宗氏が想像する目録の作成時期、鎌倉幕府滅亡後の南北朝時代はその中間。単純に考えると『吾妻鏡』編纂から50年前後である。 吾妻鏡の諸本北条本現在もっとも一般的なテキストである1933年(昭和8)の『新訂増補国史大系』(吉川弘文館)の底本となるものは北条本と呼ばれ、小田原の後北条氏が所蔵していた写本とされていた。北条本と呼ばれた訳は、1590年(天正18)の豊臣秀吉の小田原攻めにおいて、小田原開城の交渉において折衝にあたった黒田如水に北條氏直が贈ったものを、後の1604年(慶長9)に如水の子黒田長政から徳川家康(本当は秀忠)に献上されたものと言われてきたためであるが、しかしその通説は現在ではほぼ否定される。 家康が収集し、活字本開版の原本に利用されたものは、家康没後江戸城内の紅葉山文庫に収蔵され、現在は国立公文書館蔵で重文である。そこに現存するものは、楮紙の古い料紙の32冊と、楮紙の古い料紙に修善寺紙を用いた補入が施されている10冊、修善寺紙のみの1冊、そしてもっとも書写年代の新しいと思われる白紙に近い紙8冊の51冊(巻)からなる。その元になる42巻(修善寺紙を用いた補入が施される以前のもの)を八代国治は、黒川本(和学講談所本)と同様に、応永11年に金沢文庫本から書写したものを更に文亀年間(1501〜1504年)に書き写したものと見ている(八代 p28 これについては後述)。 家康による古活字本開版の準備は、黒田長政から北條氏直が所蔵していた『吾妻鏡』が二代将軍徳川秀忠に贈られる前年の1603年(慶長8)には始まっていることから、高橋秀樹氏は白紙に近い紙8冊を除く43巻を家康は1603年(慶長8)以前に一括して手に入れていたと推定している(「吾妻鏡の諸本」 『吾妻鏡辞典』p296 2007年)。おそらくは楮紙の古い料紙の42巻の、巻の中にも欠落の相当ある写本(つまりその段階で既に寄り本)を手に入れた者が、更に収集を重ねて10巻に修善寺紙を用いて補入、更に元々は丸々無かった1巻を同じ書式で写本したのだろう。 それを手に入れた徳川家康は、自身も欠落部分の収集に努め、それまで入手していたものと同じ書式で書き写させていたものが、白紙に近い紙の巻である可能性が高い。その家康の収集分は黒田長政献上のものを含めて8巻となり、計51巻を1605年(慶長10)印行の底本としたのではと現在では推定されている。尚、その8巻とは7、24、25、38、39、41、42、52巻である。 相国寺に年代不詳の家康の手紙が残っており、そこに「52巻中3巻が無いが他は全部ある」と記してある。この手紙が1604年(慶長9)の黒田長政献上以前であれば、後北条氏所持の『吾妻鏡』は欠けていた3巻中2巻を補うものであったに過ぎず、逆に手紙が黒田長政の献上以降であれば、黒田長政献上本は最大6巻を補い、それでもまだ3巻が欠けており、翌年の1605年(慶長10)印行までに欠本2巻を入手し版木に廻していることになる。何れにせよ後北条氏所持の『吾妻鏡』は白紙に近い紙の巻に書式を揃えて書き写されて、物としては残っていないことになる。 黒田長政が『吾妻鏡』を献上したというのは「寛政重修諸家譜」の黒田家提出の系図の黒田長政の箇所に「九年(慶長)三月父が遺物備前国長光の刀、木丸の茶入を献じ、台徳院殿(秀忠)に東鑑一部を奉る」とあるのみで、何巻だったのかなどは記されていない。 益田宗氏は、「吾妻鏡の伝来について」(『論集中世の窓』 1977年)の中で「いわゆる北条本はどこまで北条本か」との章をたて、「いわゆる北条本」は、江戸城内の紅葉山文庫に収蔵され、現在に伝わるその中には、後北条氏から黒田如水に伝わったものから書き写した巻は有っても、献上された現物自体は含まれていない可能性が濃厚であるとする。今日「北条本」と言われるものは「いわゆる北条本(以下北条本と略)」に過ぎないとする。こうして整理してみると確かにそう言えるだろう。 尚八代は北条本と家康本をとりあえず別物として扱っている(p31)。どうも1605年(慶長10)印行の伏見版の元になった現在の国立公文書館蔵のもの全部が1604年(慶長9)に黒田長政から徳川秀忠に献上されたものと思っていたようである。 その古活字本には3種類あるが、最も有名なものが1605年(慶長10)印行の伏見版であり、外題・版心には「東鑑」、内題には「新刊吾妻鏡」とあり、相国寺の中興の祖とされる西笑承兌(せいしょうじょうたい)の跋文がある。「東鑑」とも呼ばれるようになったのはここからである。 他は慶長元和間刊のもの、寛永版は1626年(寛永3)に慶長活字版を元に、難解な文を訂正し、カナを符って『吾妻鏡』の普及を目指したものである。林道春(羅山)の跋文により『吾妻鏡』の由来を理解できるようになっている。 尚、『新訂増補国史大系』はこの北条本を底本としながら、島津本からと見られる「吾妻鏡脱漏」を加え、そして吉川本も校合に用いた。 京都図書館本(広橋本)元広橋家の所蔵、ほとんど北条本と同じで、巻によっては行数も字数も北条本とまったく同じことがあるという。北条本より書写したものと思われている。51冊が現存。高橋秀樹氏の「吾妻鏡の諸本」によれば、北条本が完成した1604年(慶長9)以降、最初の書写であろうとする。
黒川本『群書類従』を編纂した塙保己一(はなわ ほきのいち)の和学講談所温古堂の蔵印がある。目録の終わりに「応永11年甲申(1404年)8月25日金沢文庫御本書之」とあり、応永11年に金沢文庫本から書写したものを更に書写したものと推定される。 ただし、北条本とは僅かに異なる処もあり、北条本からの書写ではなく、共に応永11年の古写本からの書写であると見られている。52巻25冊が現存し八代国治もそれを分析したが、関東大震災 で焼失したという。従って明治以降では八代の『吾妻鏡の研究』が唯一黒川本の状態を伝えるものとなっている。 吉川本吉川資料館蔵、重文。現在では吾妻鏡の最善本と目されている。大内氏の重臣陶氏の一族、右田弘詮(陶弘詮)によって収集されたものである。 右田弘詮(陶弘詮)は文人としても知られ、宗祇や猪苗代兼載といった当時一流の文化人と親交があった。弘詮はそれら文化人から「吾妻鏡と号す」「関東記録」があり「文武諸道の亀鑑」と聞いていたがなかなか目にすることが出来なかったという。しかし1501年(文亀元)頃、その写本42帖を手に入れることが出来、数人の筆生を雇い書き写させて秘蔵した。それは1180年(治承4)から1266年 (文永3)と、現在知られる範囲ではあったが、尚その間に20数年分の欠落があった。 このため弘詮は諸国を巡礼する僧徒、または諸国遊楽の人に託して、京はもちろん畿内・東国・北陸に至まで尋ねまわり、ようやくにして欠落分の内5帖を手に入れる。これを最初の書写と同じ形式で書き写させて全47帖とし、その目次も兼ねて年譜1帖を書き下ろし全48帖とした。1523年(大永3)9月5日のことである。その後書きにはこう記されている。
その後、毛利元就の子、吉川元春の手に移り、以降吉川家に伝えられた。記事に欠損はあるが、密度は北条本より多く高い。嘉禄元年(1225年)〜安貞元年(1227年)は吉川本においては1冊であるが、北条本にはその目録にすらない。具体的には北条本には無かった島津本による『吾妻鏡脱漏』部分を吉川本は全て含み、それ以外にも日の単位で数百箇所が吉川本のみにある。(ただし北条本にあって吉川本にない年もある。) 和田英松は「吾妻鏡古写本考」(1912年)において、北条本系を中心とするそれまでに知られていた『吾妻鏡』はいづれも節略本であるとし、吉川本の方がより先のものをベースとした写本と推定した。ただしそれは後半の部分を指しており、前半部分においては殆ど一致する。 (八代国治 「 北条時頼の廻国説を論ず」(『歴史地理』第22巻第2号.1913年(大正2)) その節略された部分、北条本と吉川本、島津本(『吾妻鏡脱漏』)の差分は祈寿祭礼に関する記事が多い。それらの事から八代国治は和田英松同様に「吉川本は稿本にして、北条本は修正本にあらざるかと考察するものなり」(p45) としてその具体例を健保2年4月23日条を紹介する。そして差異の全体を振り返りこう述べる。
尚、和田英松、八代国治の上記の説、吉川本は稿本、北条本は修正本(編集が進んだ段階)との説は、その後の研究、例えば益田宗以降では否定的である。一見そう見える、ということはあっても、そうだと言い切る確たる証拠はなにもない、調べれば調べるほど淡い期待は史料の現実に裏切られてゆくということか。 しかし、吉川本が『吾妻鏡』の最善本ではあるらしく、エピソードの類だが、1209年
(承元3)5月5日条は現在の国史大系では「出羽の国羽黒山の衆徒等群参す。これ地頭大泉の次郎氏平を訴える所なり」となっているが、元の北条本には「羽黒山」は「里山」とあり、研究者は苦労してそれを羽黒山のことではないかと推測していたところ、吉川本ではあっさりと羽黒山と記されており、北条本の誤記であったことが確定したりしている。 島津本(吾妻鏡脱漏)島津家文書の一部として国宝に指定されている。高橋秀樹氏は『吾妻鏡事典』に寄せた「吾妻鏡の諸本」の中で、15世紀末に二階堂氏から島津氏に進上されたものを元に、島津藩において更に収集と補訂が行われて成立したと見ている。『吾妻鏡』編纂者のひとりとして考えられる二階堂氏の一族の「二階堂文書」に、15世紀末に「御先祖之儀吾妻鏡以下古記明鏡之次第」を写し送ったとあるからである。ただし、これは「吾妻鏡以下古記明鏡」をごっそりと原本を渡したとは書いていない。ここにどれだけ重きを置いてよいのかわからない。 「御先祖之儀」とあるので、「吾妻鏡以下古記明鏡」を持っている二階堂氏に島津修理亮入道が「うちの祖先がどう書かれているか書き写して教えてくれない?」と依頼しただけなのではないだろうか。要するに「抽出・零本」を依頼しただけなのではないだろうか。ちょうど『吾妻鏡』編纂者が『明月記』の所有者に対して依頼したように。しかしそのことに関する議論も論証も見かけない。入手出来ていないだけかもしれないが。 尚、「二階堂文書」の二階堂氏は『吾妻鏡』編纂に関わった可能性の高い二階堂行貞の子孫ではないようである。同族ではあるが。 原本は1650年(慶安3)に幕府に献上されたがそちらは行方不明であり、島津家に残るものはそのときの書写本であるとされる。但し、幕府に献上された島津本は徳川家所蔵の所謂北条本に欠けていた部分を多く含み、その差分が1668年(寛文8年)『吾妻鏡脱漏』として、その翌年には『東鑑脱纂』として木版で出版された。その差分は祈寿祭礼に関する記事が多いという。 八代国治は、『吾妻鏡脱漏』が北条本と島津本の差分全てを収録したか、それともそこでも省略をした結果なのかは分明ではなく、もしも省略をしたのなら島津本と吉川本は同系列、または同じものといえるかもしれない。そうであれば吉川本も島津本同様に二階堂氏が所持していたものの系統かもしれないが、現物を見ることができないので何とも、と書く。(p38) それならば見に行けばよいじゃないかと思ったら、『続群書類従』などの編纂に携わった江戸時代末期の塙忠宝の『所目抄出』でも所在不明とされていて、八代が書いた20年後の1933年に丸山二郎の『吾妻鏡諸本雑考』により初めて実物が紹介されたものらしい。 嘉禄元年(1225年)〜安貞元年(1227年)は北条本にはその目録にすらないが、島津本には巻26の後半に収められている。ただし、益田宗氏(p324)によるとその直前に、以降嘉禄元年から安貞元年の2年分は無いと書かれていることから、北条本同様に巻数も振られずに欠落していたものを、後から他の写本で補ったものと見られる。その3年分は吉川本においては1冊(巻)をなしている。 八代国治の『吾妻鏡の研究』の巻末に「吾妻鏡諸本異同表」があるが、前述の通り八代の時代に見ることが出来たのは『吾妻鏡脱漏』であり、島津本そのものではなかった。 八代国治は関西伝来本としたが、しかし1953年の村田正志氏の研究により応永年間の金沢文庫本からの書写本の系統との説が有力となった。二階堂氏は金沢文庫からの書写本を持っていた? その『国史学』 53号を見てみたいものだがまず手には入らないだろう。『村田正志著作集第5巻』 国史学論説 (1985年) に収録されているそうだが高くて手がでない。 ところで、島津本が金沢文庫系だとすると、和田英松の頃から言われていた金沢文庫本は簡略本で、吉川本は詳細本系と言われてきたが、金沢文庫本の系統の中で簡略本も詳細本も両方あるということになってしまう。八代国治も関東での室町時代の記録に、『吾妻鏡』には簡略本と詳細本があると記されたいることを紹介しているが、こうして『吾妻鏡』の初期の本文系統論はほとんど崩れ去ってしまっているといえる。先に和田英松、八代国治の吉川本は稿本、北条本は節略本・修正本(編集が進んだ段階)との説を誰も採らなくなったことを紹介したが、それはこうした新たな事実(か)によるものだろう。 毛利本島津本と同系のものに、毛利本がある。毛利本には1596年(文禄5)3月11日付けの大徳寺の宝叔宗珍の書写奥書があり、宝叔宗珍から毛利藩に譲られたと思われる。島津本と同系ではあるが、島津本よりも書写年は古く、そこからの転写ではない。と言っても島津本原本は1650年(慶安3)に幕府に献上され行方不明。残る書写本との比較だろうか。 1958年の福田栄次郎氏の研究によれば応永年間(1394〜1427年)の金沢文庫本からの書写本の系統であるらしい。とは言っても、現在の毛利本の全ての巻がという訳ではなく、中には江戸時代初期、慶長の古活字版からの書写も混じっている(益田 p323)。現在は明治大学図書館蔵。 その他の抄出本系
その他室町時代までのものでは、前田本文治以来記録、西教寺本その他がある。 2008.3.20〜5.6、9.5、9.16、9.23、10.14 11.23 |
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