5.2 吾妻鏡で顕彰される人々

  1. 吾妻鏡・明治の研究 AZM_10_12.jpg
  2. 吾妻鏡・大正期の研究(八代国治)
  3. 吾妻鏡の構成
  4. 吾妻鏡の原資料
  5. 吾妻鏡の曲筆と顕彰
    1.吾妻鏡の曲筆
    2 .顕彰される人々
     −実務官僚で顕彰される人々
      三善康信 大江広元 二階堂行光
     −得宗家で顕彰される人々
      北条泰時  北条時頼  
  6. 吾妻鏡の編纂時期と編纂者
  7. 編纂の背景と意図
  8. 歴史資料としての価値

 

顕彰される人々

「顕彰(けんしょう)」とは、簡単に言ってしまえば「褒める」こと、それが簡単過ぎるなら「功績を讃えることること」であって、それ自体は決して悪いことではない。悪いのは嘘で固めた顕彰である場合である。ただし褒めちぎるばっかりなら、逆に褒めている書き手の立場を疑ってかかる必要はあるし、それによって書き手の立場が浮かび上がってくるかもしれない。ここでは平たく「褒める」と書いているが、実際には「敬意を表する」結果という場合もある。

褒められもし、また批判的に見られることもあるのはこの『吾妻鏡』の中で誰が居るだろうがと考えると、意外なことに頼朝と義経が思い浮かぶのではないだろうか。その二人を別にして、ここでは褒められる一方の代表選手について見ていくことにする。

実務官僚で顕彰される人達

三善康信

先に出てきた問注所の三善康連の父、三善康信(善信)であるが、確かに彼が残した記録が編纂のベースのひとつとして利用されたであろう。しかし注意しなければならない点がある。それは三善康信自信に関わる記述の中に、彼を意図的に顕彰されていると見られるものが多いことである。八代国治が『吾妻鏡』に『明月記』が多く利用されていることを発見するきっかけとなったのは朱雀門焼亡に関する『吾妻鏡』同年10月21日条の記事であるが、そこから集中的に検証を加えていくと、下記の条が見つかる。これは『明月記』建暦元年10月23日条を若干縮めて書いたものである。(この長さの漢文は辛いので読み下し文のみ紹介する)

吾妻鏡 1211年 (建暦1)11月4日条
申刻坊門黄門(中納言)使者参着、・・・・善信申して云く、この門末代に相応せざるか。その故は、通憲入道大内を営み、罪無くて斬罪に処す。治承大極殿・朱雀門焼亡す。建久九年僅かに彼の門を造る。造営の国務人(一條二品能保)父子即時に薨卒す。元久、後京極摂政殿額を書せしめ給う。御身頓滅す。今また造営上棟の後、病忽ち癒え、槐門に至る。御禊の間、また還御の時、御輿未だ建礼門に入らず。この門顛倒す。魏の文帝臨幸の日に当たり、離宮の南門壊ると。

「今また造営上棟の後、病忽ち癒え、槐門に至る」って何のこっちゃ? 摩訶不思議! と思うが、和田英松によれば、これは明月記で「病忽ち癒え」の前にあった1行が飛ばされているのである。上記の色を変えた部分は『吾妻鏡』原文では「今又造営上棟之後、病忽癒至槐門兮(ケイ:語気を強める置字)」であるが、この部分、明月記では次ぎのようにある。色を変えた部分が飛ばされた処である。

今又造営上棟之後、非大風而其柱顛倒、国務大納言万死一生、辞此國之後、病癒復平常、己誇槐之栄

これならば話しは解る。 「前回の造営上棟では、大風でもないのにその柱が倒れ、造営上棟を行事所の上卿として担当した大納言は大変な病になったが、その国務を辞任したあと病は癒えて平常に戻り、大臣にまでなって栄えた」とおおよそ此のような意味だろう(自信は無いが)。剽窃は正確に行ってもらいたいものである。意味が全く逆になってしまう。

ちなみに「槐門」は「鬼門」ではない。「槐門(かいもん)」「槐(えんじゅ)」は唐名の三公つまり左大臣、右大臣、内大臣などを指す。全然関係無いけど私は鶴岡八幡宮・槐(えんじゅ)の会の会員(笑)。鶴岡八幡宮に槐(えんじゅ)が植わっているのは実朝が右大臣に登ったことからだろう。その時に殺されたのだが。

更に翌年の1212年 (建暦2)には「適有造営事、須上臈上卿宰相弁奉之歟」と『明月記』建暦2年7月27日条の丸写しがある。該当部分を読み下しにするとこうなる。大夫屬入道とあるのも善信とあるのも三善康信のことである。

吾妻鏡 1212年 (建暦2)7月8日条
・・・・大夫属入道御前に於いてこの状を読み申す。而るに善信申して云く、適々造営の事有り。須く上臈上卿・宰相・弁これを奉るべきかと

しかもこの2件とも、三善康信の評、または献策として書かれている。これは事実の詳細を他の資料で補ったとは言えない。この2件とも八代国治氏は『吾妻鏡』が後年の編纂物である証拠であり、歴史資料として過信しすぎることの危険性の傍証としている。そしてこのことからも、三善氏の子孫たる町野、大田氏が『吾妻鏡』編纂の中心に居たのではないかとする(八代 p75)。

また近年では五味文彦氏も同様に、1184年(寿永3)4月に三善康信が鎌倉に参着したときの記述にも顕彰の意図を感じており、「相当に疑わしい」と指摘する。(五味 p284)

吾妻鏡 1184年(寿永3)4月14日 
壬午源民部大夫光行・中宮大夫屬入道善信(俗名康信)等、京都より参着す。光行は、豊前の前司光季平家に属くの間、これを申し宥めんが為なり。善信は、本よりその志関東に在り。仍って連々恩喚有るが故なり。  
翌4月15日 癸未武衛鶴岡に参り給う。御供を奉らるの後、廻廊に於いて属入道善信に対面し給う。当所に参住せしめ、武家の政務を補佐すべきの由、厳密の御約諾に及ぶと。時に光行彼の所に推参するの間、言談を止めらると。善信は甚だ穏便の者なり。同道の仁、頗る無法の気有るかの由、内々仰せらると

「本よりその志関東に在り」「武家の政務を補佐すべきの由」は明らかに三善康信の顕彰を意図した下りである。確かに三善康信はその年の10月に問注所の執事となる。

しかし、大江広元ほどの活躍の記事は見えず、それほど大きな活躍はしていなかったのではないかとされる。源光行は『海道記』の著者ではと一部では思われた人間で、やはり京より下ってきた者である。その源光行との対比、「内々仰せらると」の下りは真偽のほどは別として、善信こと三善康信からしか伝えられない内容だろう。しかし善信自身がこの通りに書き記していたとしたら、この人間、相当に嫌なやつということになる。

更に1191年 (建久2)6月に一条能保の娘の左大将九条良経との婚姻に際しその衣装が遅れ、その沙汰をした御台所政子か頼朝が「御気色不快」になったときに善信(三善康信)が「秀句」を語って怒っていた政子か頼朝は「御入興」、でお咎め(沙汰)を回避したと『吾妻鏡』にはある。

吾妻鏡 1191年 (建久2)6月9日条
・・・・・・諸人恐怖するの処、善信秀句を申して云く、先立ち参着の絹は、早馬に付け早参す。未到の絹は練り参るの間遅引するかと。時に御入興。彼の輩の事沙汰無くして止めをはんぬ。

これはひとつの例だが、総じてエピソードのたぐいに三善康信はよく登場する。

そうすると、流人時代の頼朝に、月に3度京都の情勢を知らせていたとか、以仁王の挙兵二ヶ月後に頼朝に使者を送り、諸国に源氏追討の計画が出されているので早く奥州へ逃げるように伝るななど、頼朝の挙兵前から、そして挙兵にも大きな役割を果たしたとする『吾妻鏡』に基づく説は、かなり注意が必要かもしれない。

大江広元

大江広元、は北条氏の大事なときには必ず、北条氏のアドバイザー、相談役として登場する。そしてその広元を顕彰するような記事も多く見られるが、しかし広元は実際に多くの場面で活躍しており、それらが顕彰のための創作(でっち上げ)ではないだろう。むしろ、北条時政や、泰時の顕彰記事の中で、それに付き合わされる形で登場することが多いように思われる。しかしこれはどうか。

吾妻鏡 1185年(文治元)11月12日条
凡そ今度の次第、関東の重事たるの間、沙汰の篇、始終の趣、太だ思し食し煩うの処、因幡の前司廣元申して云く、世すでに澆季に属く。梟悪の者尤も秋を得るなり。天下反逆の輩有るの條、更に断絶すべからず。而るに東海道の内に於いては、御居所たるに依って静謐せしむと雖も、奸濫定めて地方に起こるか。これを相鎮めんが為、毎度東士を発遣せられば、人の煩いなり。国の費えなり。この次いでを以て、諸国の御沙汰に交わり、国衙・庄園毎に守護・地頭を補せられば、強ち怖れる所有るべからず。早く申請せしめ給うべしと。二品殊に甘心し、この儀を以て治定す。本末の相応、忠言の然らしむる所なり

有名な大江広元が「守護・地頭」設置を献策したという下りである。同年11月28日条に、これを北条時政が後白河法皇に要求した記事がある。かつてはこの条をもって「守護地頭」の始まりととして注目された。

吾妻鏡 1185年(文治元)11月28日条
諸国平均に守護地頭を補任し、権門勢家の庄公を論ぜず、兵粮米(段別五升)を宛て課すべきの由、今夜北條殿、籐中納言経房卿に謁し申すと云々。

『玉葉』には「守護地頭」と書かれていないことは勿論知られていたが、それは『玉葉』は九条兼実が「伝聞」を記したからであって、『吾妻鏡』の方が当事者の記録だから信頼性は高いとされたらしい。『玉葉』にはこうある。

伝聞、頼朝代官北條丸、今夜経房に謁すべしと。定めて重事等を示すか。又聞く、件の北條丸以下郎従等、相分ち五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国を賜う。庄公を論ぜず、兵粮(段別五舛)を宛て催すべし。啻に兵粮の催しに非ず。惣て以て田地を知行すべしと。凡そ言語の及ぶ所に非ず。

あの石母田正氏が、1960年にこの問題に鋭く切り込み、石井進氏をして「史料解剖と呼ばれる手続きの模範例」といわせしめた。石母田正氏は「庄公を論ぜず」以下その他が殆どが『玉葉』と一致していること、「諸国平均に守護地頭を補任し」は鎌倉時代の後期には他の史料にも見えることから、これは幕府独自の記録によったものではなく、『玉葉』を下敷きに鎌倉時代の後期の一般的な通説に基づく作文ではないかと指摘したという。

『玉葉』を下敷きかどうかは簡単には頷けないが(というのは、『玉葉』を鎌倉側が目にすることが出来ただろうかということが腑に落ちない)、上記『吾妻鏡』と『玉葉』のどちらに信がおけるかといえば、それは『玉葉』であろう。そしてその石母田正氏の分析に端を発して、守護・地頭の発生、位置づけについて活発な議論が巻き起こったという(石井進 『日本の歴史 7 鎌倉幕府』  p173)

同じ『吾妻鏡』の1186年(文治2)3月1日条から同7日条にかけて北条時政の「七ヵ国地頭辞退の事」があり、院奏、院宣が載っているが、そこには一国単位の「国地頭」と「総追捕使」とあり、「守護」は見えない。現在では広元の献策「権門勢家の庄公を論ぜず、兵粮米(段別五升)を宛て課す」は、「諸国平均」ではなく「五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国」であり、「守護」職はこのときではなく、1190年当時であり、1185年(文治元)での要求は源義経・源行家の捜索・追捕を名目とした一国単位の「国地頭」と「総追捕使」であって、室町時代にまで繋がる守護職の発端は1190年に頼朝が初めて上京し、後白河法皇や九条兼実らと合意した「諸国守護」を奉行する権限にあるとされている。 (岩波講座 『日本通史巻8 中世2』 p61-63)

佐藤進一氏らが『中世法政史料集』を編纂するに当たり、『吾妻鏡』からの採用に慎重になったのも頷ける。(これについてはまたあとで触れる)

「守護・地頭」はともかく、1185年(文治元)当時の朝廷側の公卿の日記『玉葉』にある「庄公を論ぜず、兵粮(段別五舛)を宛て催すべし」との要求の献策は大江広元が行ったのかもしれないし、書いた者は守護地頭制の出発点をそう理解していた可能性が高い。

しかしそれはそれとして、「二品殊に甘心し、この儀を以て治定す。本末の相応、忠言の然らしむる所なり」の部分はでっち上げではないにしても、広元の顕彰を意図したものであり、「守護・地頭」とともに編纂時に追加されたものであることは間違いなかろう。

二階堂行光

先に、合戦記においては二階堂行政、行村が軍奉行と推測され、その資料が『吾妻鏡』に用いられたのであろうとしたが、合戦記以外については二階堂行政の子で行村の兄にあたり、実朝の政所に関わった二階堂行光の筆録が多く利用されたと見られている。その二階堂行光の顕彰はどうであろうか。1204年(元久元)9月に実朝が北条義時の家(相州御亭)を訪れたが、月蝕の為に逗留を余儀なくされる。そこで二階堂行光は白河院の古事を語り「相州殊に御感」と北条義時を感心させたと。

吾妻鏡 1204年(元久元)9月15日
その間行光座に候ず。申して云く、京極太閤の御時、白河院宇治に御幸し、還御有らんと擬す。余興盡きざるの間、猶御逗留申さる。而るに明日還御有らば、宇治より洛陽北に当たり、方忌の憚り有るべしと。殿下御遺恨甚だしきの処、行家朝臣喜撰法師の詠歌を引き、今宇治都の南に非ず、巽たるの由これを申す。茲に依ってその日還御を止めらると。今夕の月蝕、尤も天の然らしむ所なりと。相州殊に御感すと。

ところがこの逸話は『十訓抄』1の24話なのである。

京極大殿(頼通公息、師實)の御時、白河院宇治に御幸有ける。余興盡ざるによりて、今一日御逗留有べきよしを申さるるを、明日還御あらば、花洛は宇治より北にあたりて、日ふさがりの憚有べし。このためいかがといふに、殿下遺恨ふかき所に、行家朝臣申ていはく、宇治は都の南にあらず。喜撰が歌に云く、わが庵は都のたつみしかぞすむよをうじ山と人はいふなりとよめり、しかれば何のはばかりあらんと申されけり。この旨を奏聞ありければ、その日還御のびにけり。

『十訓抄』の成立は、鎌倉中期の建長年間(1252年とも)で、妙覚寺本には「或人云、六波羅二臈左衛門入道(湯浅宗業)作」という奥書がある*1。

五味文彦氏は、その元になった説話を二階堂行光が読んでいた可能性も無視は出来ないが、六波羅探題の関係者が(すくなくとも)所持していたことからすれば、『吾妻鏡』の編纂者がそれを見て、顕彰記事に利用した可能性はあるだろうとする。

二階堂行光については『金槐和歌集』から編纂者が採録したのであろうとされる部分のあることを八代国治氏が指摘している。1213年 (健保元=建暦3)12月19日条から翌20日条なのだが、『金槐和歌集』では建暦2年12月とある。その内容は決して嘘偽りではなく二階堂行光のことなのだが、編者の行光顕彰の意図があったことは間違いあるまい。

*1: 他に菅原為長作という説、石井進氏による佐治左衛門尉重家との説もある。

得宗家で顕彰される人達

北条泰時

顕彰と云えば、その最たるものは北条泰時だろう。かく云う私自身、直接の政争以外はつい警戒心を解いてしまい、北条泰時は人間味溢れる良い人だったんだなぁ、などと思ってしまっていたが、もう少し注意せねばというのが以下の条である。

吾妻鏡 1200年 (正治2)4月8日
風烈し。佐々木左衛門の尉廣綱が飛脚京都より参着す。申して云く、去る月二十九日白昼六條万里小路に於いて、若狭の前司保季、掃部入道(中原親能)が郎等吉田右馬の允親清が妻を犯す。親清六波羅より帰るの処、この事有り。即ち太刀を取りこれを追い、六條南・万里小路西、九條面平門の内にこれを斬り伏す。その後彼の男(佐々木)廣綱が許に来たり。而るに摂津権守入道と号する者奔り来たり、傍輩と称し請け取るの処、使(検非違使)の廰の召しに依って、廷尉(検非違使尉)の方に渡さんと欲するの間、駿馬に策(むち)うち逐電しをはんぬ。仍ってその前途を尋ねるの刻、摂津権守また行方を知らず。保季父少輔入道(藤原定長 )訴え申すに就いて、頻りにその召し有り。定めて東国に遁れ下るかの由推察を廻らし、兼ねて以て言上すと。この保季、容顔華麗にして潘安仁に異ならず。斬殺せらるの時、僅かに着せしむ所の小袖頸辺を覆いその身を顕わす。観る者堵の如し。皆悲涙を拭うと。

同4月10日
還って炎旱の瑞たりと。今日、掃部の頭(大江)廣元朝臣江間殿(北条義時)に申し送りて云く、去る月若狭の前司保季を殺害せしむるの男手を束ね来たり。何様に為すべきや。御意見に随って披露すべしと。御返事に云く、是非に付いて披露せらるべしと。江間の太郎主(北条泰時)仰せられて云く、郎従の身として諸院宮昇殿の者を殺害す。武士に於いてまた指せる本意に非ず。白昼行う所罪科重きや。 直に使の廰に召し進し、誅せらるべきものかと。守宮(大江広元)この事を聞き、感嘆落涙に及ぶと。

事件そのものもは、実は『明月記』正治2年3月29日条での藤原定家の日記、泰時が語ったという「郎従の身として諸院宮昇殿の者を殺害す。武士に於いてまた指せる本意に非ず」は藤原定家の評を写したものである。

ちなみに、白昼に六條万里小路の路上で若狭前司保季が武士の妻を無理矢理婦女暴行ではない。『明月記』では「人云、女院(不知其所)蔵人犯人妻之間、本夫抜剣斬殺、六條万里小路辺云々」でる。

私は昔読み間違えて「そりゃ斬り殺すのは当然!」と思ったのだがそうではなかった。大体この時代の京は招聟結であって、逸話の世界だが源義家だって人妻の元へ夜這いに行ったぐらいだ。

藤原定家はその翌日になって詳細をを知ると殺されたのは定家の親戚(従兄弟の子で義理の甥)だったと。つまりここでは定家の文章を丸ごと(加工せずに)ぱくった訳ではない。切り刻んで編集しなおしている。中原親能の郎等の名前が『吾妻鏡』には吉田右馬允親清とあるが、定家はその名を知らない。恐らく別の記録もあったのだろう。益田宗氏によるとそのような例は他には和田合戦の1例だけだという。それについては別項で見ていく。

ところで『明月記』の利用箇所に必ずと云いたくなるほど良く登場する人物がここでも顔を出す。

翌4月11日条 
(大江)廣元朝臣申す。彼の親清が罪名、善信(三善康信)が如き沙汰有り。降人として参向せしむるの上は、暫くこれを召し置き、事の由を使の廰に相触れられ、その落居有るべきの由定めらると。仍って今日(佐々木)廣綱が使者帰洛す。

既に見てきた三善康信である。

北条時頼

八代国治氏が指摘するのはその卒去の記述である。

吾妻鏡 1263年 (弘長3)11月22日条
晴未の刻小町焼亡す。南風頻りに吹き、甚烟御所を掩う。仍って御車二領南庭に引き立て、御出の儀に儲く。爰に前の武州亭前に至り火止む。戌の刻入道正五位下行相模の守平朝臣時頼(御法名道崇、御年三十七)最明寺北亭に於いて卒去す。御臨終の儀、衣袈裟を着し、縄床に上がり坐禅せしめ給う。聊かも動揺の気無し。
頌云、業鏡高懸、三十七年、一槌撃砕、大道坦然。  
弘長三年十一月二十二日道崇珍重々々
平生の間、武略を以て君を輔け、仁儀を施して民を撫す。然る間天意に達し人望に協う。終焉の刻また手に印を結び、口に頌を唱へて、即身成仏の瑞相を現す。本より権化の再来なり。誰かこれを論ぜんや。道俗貴賤群を成しこれを拝み奉る。・・・・・

実に感動的なのだが、「頌云」の「業鏡高懸、○○年、一槌撃砕、大道坦然」は『増集続伝燈録妙堪』の伝記にある遺曷の年齢を変えただけのものである。確かに中国のそれほど有名ではない僧妙堪の没年は北条時頼の15年前だが、時頼がそれを知っていた可能性がどれほどあるだろうか。また他人の遺曷、解りやすく云えば辞世の句を、他人の引用で済ませるなどということが、禅宗に帰依した時頼にとって宗旨上もあり得たことだろうか。八代国治はこれを編纂者の「舞文潤飾」と断定する。

もっとも黒田俊雄は1965年の 『日本の歴史8 蒙古襲来』 で「ほかにもそんな例は多いそうだから、盗作などと悪口をいうほどのことでもないらしい」(p48)と云っている。だからと言って黒田俊雄はそれは本当に北条時頼が書いたのだろうと言っている訳ではない。同様に益田宗は1977年の『論説中世の窓』に寄せた「吾妻鏡の伝来について」という論考の注において、室町時代中頃の「聖徳太子伝古今目録抄」も、この遺曷を北条時頼のものとして上げていることを紹介しながらこう書いている。

時頼が死んだ弘長3年(1263年)から、吾妻鏡の編纂時期まで3〜40年ある以上、巷間に作られていた時頼遺曷なるものを、編纂者がそのまま本文に採用したと考えるのが当たっているのではあるまいか。・・・遺曷捏造の可能性を吾妻鏡の編纂者だけに押しつけるわけにはいくまいと思われる。(『論説中世の窓』 p339)

 

八代の指摘ではないがこういうこともある。

『吾妻鏡』 1241年(仁治2) 11月29日条
 壬子未の刻若宮大路下下馬橋の辺騒動す。これ小山一族等と三浦の輩と喧嘩有り。両方の縁者馳せ集まり群を成すが故なり。前の武州(泰時)太だ驚かしめ給う。即ち佐渡前司(後藤)基綱・平左衛門尉盛綱等を遣わし宥めしめ給うの間、静謐すと。事の起こりは、若狭前司(三浦)泰村・能登守(同)光村・四郎式部大夫家村以下兄弟・親類として、下下馬橋西頬の好色家に於いて酒宴乱舞会有り。
結城大蔵権少輔朝廣・小山五郎左衛門尉長村・長沼左衛門尉時宗以下の一門、同東頬に於いてまたこの興遊を催す。時に上野の十郎朝村(朝廣舎弟)彼の座を起ち、遠笠懸の為由比浦に向かうの処、先ず門前に於いて犬を射追い出す。その箭誤って三浦会所の簾中に入る。朝村雑色男をしてこの箭を乞わしむ。家村出し與うべからざるの由骨張る。これに依って過言に及ぶと。件の両家その好有り。日来互いに異心無し。今日の確執、天魔その性に入るかと。

翌11月30日条
・・・また北條左親衛(北条経時)は、祇候人をして兵具を帯かしめ、若狭前司(三浦)方に遣わさる。同武衛(北条時頼)は、両方の子細を訪われるに及ばず。これに依って前武州(北条泰時)御諷詞に云く、各々将来御後見の器なり。諸御家人の事に対し、爭か好悪を存ぜんか。親衛(経時)の所為太だ軽骨なり。暫く前に来るべからず。武衛(時頼)の斟酌頗る大儀に似たり。追って優賞有るべしと。 ・・・

時頼が15歳のときである。三浦氏と小山氏との間に、ささいなことから端を発し、あわや一戦にという事件が起った。高柳光寿先生も『鎌倉市史総説編』で地理史の観点から取り上げていた事件だが、『吾妻鏡』自体の分析という観点からは別なことが見えてくる。

兄の経時はこの事件で一応理のある三浦氏を助勢しようと多分数名の手勢を差し向けた。それに対して弟の時頼は酒の場での喧嘩だからと静観していた。泰時は、経時の行為は将来執権になろうという者としてあるまじき振舞てあると怒り。一方時頼は事態を静観していたので「将来、執権の器(うつわ)」に叶うと褒められたというのである。

いかにもな臭い話しである。兄北条経時は祖父泰時の後を継いで19歳で4代執権となるが、4年後に弟北条時頼に執権を譲り、出家、直後に死亡する。経時の幼子が2人は時頼の意向で出家させられ僧となった。

2008.3.20〜5.23、8.29分轄、 9.10 、9.29 12.09 追記