付1.3 龍福義友氏の「吾妻鏡の虚構」 |
|
<付論>
「歴史を考える部屋」という名前のブログがある。これがまたシンプルながら実に綺麗なデザイン、色づかいから最初は絶対に若い研究者だと信じて疑わなかったのだが・・・・。なんと、石井進氏や笠松、益田氏らと共に「中世の窓」同人であった元東大史料編簒所教授の龍福義友氏だった。相当のお歳ではなかろうか、その龍福氏がブログを持っている。仰け反ってしまった。が問題は相当なお歳の高名な学者さんが格好いいデザインのブログを持っていることではない。その中にこういう論考がある。
話しの背景その内容に入る前に前後の流れを簡単に説明しておこう。 白河法皇の時代に、摂政・関白となった藤原忠実は、一族に分散していた荘園を摂関家領としてまとめあげる。保元の乱で子の藤原頼長は崇徳上皇の側に立ち敗死し、藤原頼長領は没収されるが、藤原忠実が所有していた摂関家領の大半は、後白河についた長男の摂政藤原忠通に引き継がれる。その藤原忠通の子に藤原基実、藤原基房、藤原兼実がいる。 摂関家を継いだ藤原基実に平清盛は四女・盛子(みつこ)を嫁がせ、清盛と摂関家の連携が出来上がるが、基実は若死にしてしまう。子の藤原基通はまだ幼かった為、藤原基房が六条天皇の摂政に就任し、後に関白となったが、摂関家領は平清盛の娘盛子が藤原基実の妻ということで管理することになる。事実上平清盛の横領である。藤原基房はそれに反発して平家とはそりが合わず、1179年の治承三年の政変で後白河院の院政が停止されると同時に解官され出家する。そのあと平清盛の手で摂政となったのが藤原基実の子で成長した藤原(近衛)基通であり、基通は清盛の六女・完子(さだこ)を妻としていた。基通のバックは平家であったが、平家の都落には同行せず、京に止まり後白河法皇の側近として仕え、法皇随一の側近として信任を受けた。 その後1186年2月に、そもそも平家と縁が深かったことから基通は源義経に源頼朝追討の院宣を法皇が出した件で責任を追及され、頼朝の要求(文治2年2月27日条)により解任されて叔父の藤原(九条)兼実が摂政となった。しかし法皇は不承不承で、なおも基通を庇護していたと言うのが背景である。 文治2年4月20日条の院奏そういう中で『吾妻鏡』には頼朝から後白河へ院奏が成されたとある。文治2年4月20日条である。この条は事実と相違する。それも偽文書を編者がそうと気付かずに資料としてしまったなどというものではなく、編纂者自身の手になる贋文であろうと元東大史料編簒所教授の龍福義友氏は指摘している。その論証は微に入り細に入りとても緻密過ぎて一回読んだだけでは解らなかったのだが、話しを単純化してみるとこういうことらしい。
ここでは「平家在世の時」に藤原基実の遺領が平家に横領されて藤原基房に渡らなかったことの不当を「極めて無道邪政」、と言い立てて平家に横領された遺領を引き継いだ前摂政(基通)から、その遺領を現摂政(兼実)が受け継ぐべきであると強面に主張している。 文治2年5月5日付の院宣それに対する後白河の返事が『吾妻鏡』文治2年5月18日条にある院宣である。
後白河は藤原基実が死んだときも、摂政は藤原基房が継いだが氏長者の家領まで継いだ訳ではなかったではないかと「前例」を用いて頼朝の手紙(院奏)に反論したのである。先の内容の手紙(院奏)に対してこのような返事(院宣)が出てくるだろうか。2つを現代語に意訳してみるともっと解りやすい。こんな議論があるだろうか。
「お前、人の話を聞いてないのか!」と言いたくなるだろう。
「お前、人の話を聞いてないのか!」ということについて、実際に後白河はそんな主張は耳にしていないようである。というのは頼朝の院奏は『吾妻鏡』 文治2年4月20日条に書かれているものとは全く違うものだったからである。もちろん、藤原基通が持ち続けている摂関家領は藤原兼実に分けられるべきであるという主張は同じだが、その理由が違う。 九条家古文書に見る頼朝の院奏実は龍福義友氏によると、4月20日に頼朝が出した院奏の本物が九条家の古文書の中に残されているという。『吾妻鏡』ではないのでここだけ漢文のまま載せる。
宮内庁書陵部所蔵『九条家文書』201の内、龍福義友氏が破損箇所を補う。 『鎌倉遺文研究』20、2007年、「「文治二年五月の兼実宛頼朝折紙」管見」注8 (p21)参照 本物では前摂政家藤原(近衛)基通と、現摂政家藤原(九条)兼実の所領の変更を求める理由は、「摂籙家領のこと、その流区分候か」という前現両摂政それぞれに固有の権利を認めようとする判断であり、これは「代々の例」に従うことで現実化されるとしている。むしろ強調されているのはどちらかが独占すると、それぞれの職務なり家務なりの遂行に必須の「儀式」、要するに家業の実施に支障が生じるだろうと、冷静に、きわめて実理的に主張している。
頼朝が「任代々之例」にのっとって裁かれるのが宜しいでしょう、と理(当時の朝廷の「理」、「法」は「前例」である)を尽くして言うに対して、後白河は「入道関白(藤原基房)の時も氏長者の外の事は摂録に付さざるか」という「例」を持ち出したのである。本物を先頭に置いてみよう。
これなら解る。のらりくらりの言い逃れではあるが。それに対して、「その時の事極めて無道邪政に候や」、つまり「あれは平家の横暴じゃないか!」と反発するのも、再反論するのも解る。しかし『吾妻鏡』では再反論が「返事」より先になってしまっている。 『吾妻鏡』鏡編纂者が実際の院奏の写しを手元に持っていれば、それはそのまま収録されただろう。しかしそれが無かったばかりか、その中身の概要を伝える資料さえも目にはしていなかったらしい。『吾妻鏡』文治2年5月18日条に載る5月5日付の院宣は手元にあるのだが、しかしそれでは話しがつながらない。そこで4月20日の院奏を5月5日付の院宣から想像したのだが、それは院宣への反論になってしまった、とそういう訳だろう。 龍福義友氏の指摘文治2年4月20日条の頼朝の院奏が偽物であることは、本物が発見されたことだけでも明らかなのだが、龍福義友氏は、その「捏造」が編纂者の手によってどのように行われているかがこの中から見て取ることが出来るとする。そしてこう指摘する。
(注14)、(注15)等はもとより、その龍福義友氏の論述自体が即座に参照出来るので、検証はそちらで行って頂きたい。 その道の大家が自分の考えをまとめている最中の未定稿なので、古文でも漢文でもないのに、たったこれだけ読み解くにも相当時間がかかってしまった。 龍福義友氏の本論での結論先にリンクをあげた「本論・上」の中でもこう指摘されている。全文がネット上で簡単に参照できるので、ここでは龍福義友氏の結論だけを注意喚起の為に引用し、その論証についてはこれも原文を参照してもらいたい。
注4 は八代国治以外の代表的なものとして『中世法制史料集』一(岩波書店、1955年)の佐藤進一氏による「解題」428〜429ページ。注5は「実務官僚で顕彰される人達 」で見てきた部分である。注6の内容は以下の通り。
確かに「反事実性の発生原因の考察」については八代国治にあそこまで感情的(かのように)に書かれてしまうと、更に追い打ちを、という気持ちは萎えてしまって、事実関係を淡々と、という感じになってしまうかもしれない。 龍福義友氏がそれに対してどういうイメージをお持ちなのかは解らないが、現時点では八代国治の論調とはだいぶ違ったものにはなりはしないか。ひとつには『吾妻鏡』の曲筆は全てが編纂者の手によるものか、という点である。八代国治は曲筆が集中する前半を、鎌倉時代中期、時宗の時代と想定していたが、現在では1300年前後と見なされている。それに伴って、「得宗家で顕彰される人達・北条時頼」でも見てきたとおり、黒田俊雄氏や益田宗氏ように「吾妻鏡の編纂者だけに押しつけるわけにはいくまい」という雰囲気が大きくなっているのではないだろうか。 『明月記』に関わる部分、そしてこの龍福義友氏の指摘した部分は確かに編纂者の手によるものだとは思うが、龍福氏自身「幕府草創期の歴史を叙述するに当って編者が手にすることのできた資料が甚だしく乏しいものだった」と言われるような状況の中では、編纂者の元に集められた史料は2次史料、3次史料も多く含んでいただろう。何代も語り伝えられた家の伝承がどうなるかは今に伝わる家系図を見るだけでも十分に推測出来るだろう。あるいは「やぁやぁ我こそは」の氏名乗りを思い浮かべても良いし、小代伊重(これしげ)の置文でもよい。 小代伊重はその子孫への置文に、京都守護職であった平賀朝雅とその一行が、蓮華王院の宝蔵に秘蔵されていた後白河法皇の承安版『後三年絵』を見せてもらったときに、絵の中に、義家の対の座に副将軍として小代氏の祖先にして児玉党の長、有大夫弘行が「赤皮の烏帽子かけをして座って」いるのを一族の者が確かに見たというのである。ところがその後、誰かがそれを別の名に書き換えてしまったと。そういうことはよくあるらしいが、小代氏が飾ったのかもしれない。伊重より前の代に。先祖を誇ることが命より大切だった時代だ。先祖の誇りこそがアイデンティティであり、家イコール先祖ですらあった。御家人はその先祖のある者で、その郎等は先祖無き者といわれた。 そういう諸家の先祖の伝承を「史料批判」もぜずに(そんな概念は生まれていない)、乏しい史料を最大限生かしながら編纂を行い、欠けている部分を自分の想像で補って話しが通じるようにし、ついでに自分の祖先の顕彰も行い、という編纂物から「反事実性の発生原因の考察」というより、『吾妻鏡』編纂の意図を読み取らなければならない。 2008.9.7初稿、9.17、9.20 更新 |
|