付1.2 和田合戦に見る吾妻鏡と明月記 

  1. 吾妻鏡・明治の研究 AZM_10_06.jpg
  2. 吾妻鏡・大正期の研究
  3. 吾妻鏡の構成
  4. 吾妻鏡の原資料
  5. 吾妻鏡の曲筆と顕彰
  6. 吾妻鏡の編纂時期と編纂者
  7. 編纂の背景と意図
  8. 歴史資料としての価値

<付論>

  1. 吾妻鏡の周辺・嘉元の乱
  2. 和田合戦に見る吾妻鏡と明月記
  3. 龍福義友氏の「吾妻鏡の虚構」
  1. 室町時代の吾妻鏡
  2. 吾妻鏡の諸本
  3. 江戸時代の吾妻鏡研究
  4. 流布している俗説
  5. 参考文献

高橋典幸氏の研究

「吾妻鏡と中世都市鎌倉の多角的研究 研究成果報告書」の中(163-166)で、東京大学・史料編纂所の高橋典幸氏は『吾妻鏡』での和田合戦の記述と、『明月記 』での和田合戦の記述を詳細に分析し、『吾妻鏡』の記述が、『明月記』の表現を随所に用いていることを明らかにした。

八代国治以来、『吾妻鏡』の『明月記』の記述の利用が数多く指摘されてきたが、1213年 (建暦3)5月2日〜3日年の和田合戦の記述については八代国治は注目していない。その理由のひとつは、この事件は京ではなく、鎌倉で起こっていることだろう。だいたい『明月記』よりも『吾妻鏡』の方が詳しい。詳しい情報があるのに、わざわざ京の公家が京で伝え聞いて記した日記から盗作する必要など何処にあるのだろうか。それに『明月記』からの盗作は、ほとんど丸写しが多いのに対し、この和田合戦についてはそういう処はない。おそらくはそういうことでは無いだろうか。

この1213年 (建暦3)5月の和田合戦の記述の原史料となっただろう合戦記を記したのは誰かということについて、五味文彦氏は、1213年 (建暦3)5月4日条に「山城判官行村奉行たり。行親・忠家これを相副う」とあることから二階堂行政の子二階堂行村 であろうとする。これは妥当だと思う。

しかし高橋典幸氏はここでも『明月記』が下敷きにされているという。和田合戦での『明月記』利用については、平田・益田両氏の論争の頃から指摘されているらしい。

東京大学史料編纂所報 Vol.6(1971年) 「吾妻鏡の本文批判のための覚書 : 吾妻鏡と明月記との関係」。残念ながら入手出来ない。・・・と思ったら捜すところを間違えていた。東京大学史料編纂所報第6号(1971年) はネット上に公開されているではないか! 史料編纂所さん、有り難う御座います。(2008.9.7)

しかし益田宗氏は「吾妻鏡の伝来について」(『論集中世の窓』 吉川弘文館 1977年)でもそのことに触れ、このように述べている。史料編纂所報の「・・・妻鏡と明月記との関係」は下記を具体的に比較詳論したものか。

完成したらしくは思えぬといって、史料を蒐集し、これを年月順に配列しただけの、初歩の段階で止まっていたとも思われない。例えば、明月記は吾妻鏡の編纂材料として有名なものであるが、両者を比較してわかることは、明月記の文章の前後を入れ替えたり、官名を唐名で表記しなおしたり、明月記からの記事の間に他の史料からの知恵を借りて補筆したりして、手が入ってきていることが確かめられる。(p330)

五味文彦氏は和田合戦記の記述を評して「『吾妻鏡』の無機質な記事のなかでは最も精彩にあふれ、それ自体文学作品と言っても過言ではない」と言う。まさにその通りである。しかし高橋典幸氏は、実はその「それ自体文学作品」と絶賛される表現の中に『明月記』が隠れていると言うのである。

『文選』(もんぜん)

他のケースとは異なり、表現の一部に『明月記』の言い回しを利用することは別に悪いことではない。藤原定家の『明月記』の記述自体が『後漢書』の、あるいは『文選』(もんぜん)の「答蘇武書」における戦闘の記述の表現などを好んで使っている。後述する「策疲馬之兵、当新覊之馬」と同じ言い回しを、治承4年11月7日条に「況亦(また)疲馬之兵、難当新覊之馬云々」と、「難」を付けて「〜とはならなかった」と書いていると言う。

『文選』は平安時代の貴族にとっては教養として暗誦の対象となっており、我々が普通に使う熟語の多くはこの『文選』(もんぜん)が出典だったりするほどである。『吾妻鏡』の記者が、藤原定家と同じように『後漢書』の、あるいは『文選』の表現を使ったとしても不思議は無い。ただしそれが正しく使われていればである。正しく使われていれば『後漢書』や『文選』に精通していて自然とその表現を使ったと言うことも十分に考えられるだろう。

しかし、そうではないところから『後漢書』や『文選』からではなく、『明月記』から、その本来の意味を理解することなく、単なる文飾として用いたのではないかという疑いが浮かび上がってくる。高橋典幸氏の指摘の中からもっとも判りやすい2例だけを以下に紹介する。

攝大威

後漢書』に「攝大威」という言葉が出てくる。「賊強戦勝 而素攝大威 客主相知 夜遂引去」と。これを読み下しにするとこういう意味である。「賊は戦いに勝つと強も 而れども素より大威を攝れ 客主相い知らず 夜に遂に引きて去る」

『明月記』にも「攝大威」という言葉が出てくる。「賊又攝大威而夜遂引去」、意味は「義盛は将軍の権威を恐れて退いた」となる。 

写本の中の北条本『吾妻鏡』にも「摂大威」という言葉が出てくる。元は「攝大威」だった可能性が高い(一般に「攝」は「摂」の旧字)。「凡義盛匪啻摂大威、其士率一以當千、天地震怒相戰」。前後の関係からは「摂大威」は「大いに武威を発揮した」の意味でなければならない。しかし「攝大威」も「摂大威」でも、そう読むには無理がある。『後漢書』も、それを写した『明月記』でも「攝大威」はそういう意味ではない。

写本の中の吉川本『吾妻鏡』では、どの段階でかで書写した者がこの解釈に迷ったのか「播大威(大威をあげる)」と読みなおし、それが現在の「新訂増補・国史大系本・吾妻鏡」に採用された。読み下し文はこうなる。「およそ義盛ただに大威をあぐるのみにあらず、その士率も一もって千にあたり、天地震怒そて相戰ふ(『全標吾妻鏡』高志正造 以下同)」この部分の原著者はそういう意味を書きたかったんだろうから、意訳としては正しいだろう。

しかし、ここに関する限り、原書に近いのは北条本であろうことは明らかであり、その原書を『後漢書』を読み込んだ人間が書いたとは思えない。『後漢書』のこの部分は「賊」と呼ばれた側が書いたのか、それとも「賊」と呼んだ側が書いたのか。後者であれば「賊」に「大威」などと言う言葉を使う訳が無い。また、この部分を、「賊」と呼ばれた側が書いた訳が無い。『後漢書』を直に読んだので無ければ、『明月記』以外の何を読んだのだろうか。

策疲馬之兵、当新覊之馬

もうひとつ、先にも触れた部分だが『明月記』にこういう記述がある。「義盛強兵尽箭窮、策疲馬之兵、当新覊之馬、然尚追奔遂北(「北」は破れるの意味)」。「策疲馬之兵、当新覊之馬」は『文選』にある李陵の「答蘇武書」の表現であり、これは対になっている。

嗟乎!子卿!人之相知、貴相知心.
前書倉卒、未盡所懷、故復略而言之:昔先帝授陵步卒五千、出征絕域、五將失道、陵獨遇戰.
而裹萬里之糧、帥徒步之師、出天漢之外、入強胡之域.
以五千之眾、對十萬之軍、策疲乏之兵、當新羈之馬
然猶斬將搴旗、追奔逐北、滅跡掃塵、斬其梟帥.使三軍之士、視死如歸.
陵也不才、希當大任、意謂此時、功難堪矣.

『明月記』の文意は、次々と新手が繰り出す北条方に対して戦う和田義盛を「答蘇武書」にある、5千の兵を率いて10万の敵に向かい、疲れ果てた兵を励ましながら新手の騎馬隊に立ち向かう李陵に擬えているのだが、『吾妻鏡』ではこの対の一文を別の日に分轄してしまっている。

5月2日条 「臨暁更、義盛、漸兵盡箭窮、策疲馬、遁退于前濱邊」
(暁更(げうこう:あかつき、夜明け時)に臨みて、義盛やうやくに兵盡(つ)き箭窮(やきわま)り、疲馬に策(むちう)って前濱の邊に遁れ退く。)

5月3日条 「義盛、待時兼之合力、当新覊之馬、彼是軍兵三千騎、尚追奔御家人等」
(義盛、時兼が合力を得て、新覊の馬に当たる。彼是の軍兵三千騎、なお御家人等を追奔す。)

断定は出来ないものの、これらのことから『吾妻鏡』の著者が、『文選』にある李陵の「答蘇武書」を十分に読み込んでいたとはとても思えず、また定家の文意にすらあまり注意を払わずに、文飾、平たく言えば格好いい知的な表現として名文家としても知られる定家の表現(字句)を用いた可能性は高いように思える。

何で分轄したのか。それは事実関係の情報については『明月記』の記述以上のものを著者は持っていたからだろう。恐らくはそれが二階堂行村の筆録、あるいは公文書としての合戦記だったのだろう。これに関しては情報を『明月記』に依存したのではない。筋書きは『明月記』ではなかった。知的で、感動的な読み物とするために『明月記』の表現を利用したと。

700年も前の事である。その人間は自分が書いているものが700年も後に残り、歴史学者によって史料批判の俎板に乗せられるとは夢にも思わないだろう。彼にとっての世界は1300年当時の10数人の幕府高官であり、その半数は文書に明るい訳でもない武士であって、実務官僚たる文士とて『明月記』なるものの存在を知っていたかどうか、存在自体を知っていたとしても読む機会のあるものなど居ないはずだったのではなかろうか。

『吾妻鏡』が読み物としてとても面白いのは、誰もが認める通りその前半部分である。そして、『明月記』の記述が流用されるのもその前半部分であり、かつその流用は三善康信の意図的にして露骨な顕彰に利用されている。
これも断定は出来ないが、その部分を書いたのは大田時連 である可能性が最も高くはないだろうか。大田時連が『吾妻鏡』の編纂者兼著者であったが為に、鎌倉滅亡後も室町幕府に「武家宿老故実者」として迎えられ、室町幕府初代問注所執事となったという推測も成り立ちはしないか。

2008.8.16-18、9.3、9.18 追記