6.2 吾妻鏡2段階説への笠松宏至の異論

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  1. 吾妻鏡・明治の研究
  2. 吾妻鏡・大正期の研究(八代国治)
  3. 吾妻鏡の構成
  4. 吾妻鏡の原資料
  5. 吾妻鏡の曲筆と顕彰
  6. 吾妻鏡の編纂時期と編纂者
    1.八代国治の2段階説と益田宗の異論
    2.2段階説への笠松宏至の異論
    3.『明月記』の鎌倉伝搬時期
    4.吾妻鏡の編纂者・五味文彦の研究
  7. 編纂の背景と意図
  8. 歴史資料としての価値

 

 

笠松宏至の「徳政・偽文書・吾妻鏡」

東大史料編纂所の笠松宏至氏は1962年に「徳政・偽文書・吾妻鏡」という一文を発表した。(『中世人との対話』 東京大学出版会 1971年収録) その中で笠松宏至は、八代説は「何ほどの確証を提示したわけではなく、言わば八代説を上回る新説が出ないために、そのまま放置されてきたと言えるであろう」とし、『吾妻鏡』の成立年代を、その前半部分も含めて一挙に1297年以降に引き下げる論証を行った。出演は河野四郎通信と伊豫国の御家人とそのひとり三島大祝安時、そして善信こと三善康信である。関係史料は3点、いや4点である。まず中心となる3点の史料を紹介する。

史料1 『吾妻鏡』1203年 (建仁3)4月6日条

伊豫国の御家人河野四郎通信、幕下将軍御時より以降、殊に奉公の節を抽ずるの間、当国守護人佐々木三郎兵衛尉盛綱法師の奉行に懸らず、別に勤厚を致すべし。兼ねてまた、旧の如く国中近親ならびに郎従 を相従うべきの由、御教書を給う。平民部丞盛時これを奉行す、通信年来鎌倉に有るの処、たまたま身の暇を給ひ、明旦帰国すべきの間、御前に召し、この御教書を給うと云々。

史料2 『吾妻鏡』1205年(元久2)閏7月29日条

河野四郎通信勲功他に異なるに依って、伊豫国の御家人三十二人、守護の沙汰を止め、通信の沙汰として御家人役 を勤仕せしむべきの由、御書を下さる(将軍御判を載す)、件の三十二人の名字、御書の端に載せらるる所なり、善信奉行す
頼季(浅海太郎、同舎弟等) 公久(橘六) 光達(新三郎) 高茂(浮穴大夫) ・・・・頼恒(太郎) 
已上三十二人と。

史料3 「三島(伊豫大山積神社)文書」 関東下知状 

(花押)
通信相共に候ず御家人交名の事  
・・・・交名・・・・
右、件の御家人等、守護所の沙汰を止め、通信の沙汰として、御家人役を勤仕 せしむべきなり、但し犯過を致す輩に於いては、通信の沙汰として、召し進すべきの状、鎌倉殿の仰せに依って、下知件の如し、
元久二年壬七月 日

八代国治も『吾妻鏡の研究』7章「吾妻鏡の誤謬」の19点目(p160)に、上記の史料2と史料3を上げ、史料2の原本が史料3の三島文書であろうこと、そして史料3「三島文書」の実朝の下知状も含めて偽文書であろうと指摘している。その理由については笠松宏至も異論は無いという。

問題は、この偽文書が何のために、いつ作られたのかである。そこで比較されるのが同じ『吾妻鏡』に載る史料1である。こちらは偽文書ではなく、幕府、または平盛時の家に保管されていた文書からの記事であろうが、一番大きな矛盾は史料では「旧の如く国中近親ならびに郎従」とあるに対し、史料2.3ではそこが「御家人」となっていることである。そして「御家人交名の事」「件の御家人等」「御家人役を勤仕」と「なりるりかまわず」御家人が強調されている。

そして、史料3には、この文書の伝来者の祖先であろう三島大祝安時に朱の合点が付してある。つまり三島大祝安時が御家人である事を強調していると見える。では何故三島大祝安時が御家人である事を強調したかったのか、そのためにわざわざこの偽文書まで作った理由は何か。

それを解く鍵は、同じ「三島(伊豫大山積神社)文書」 に納められたここでの関係史料の4点目、1300年(正安2)8月18日の六波羅下知状(『鎌倉幕府裁許状集』下、p51)である。

史料4 「三島(伊豫大山積神社)文書」・六波羅下知状

伊豫国の御家人三嶋大祝安俊代子息安胤申す、同国貞光名内、沽却田地壱町七段の事
右当名は去る元久2年12月閏7月日右大将家御下知、貞応2年3月日近藤中務丞国盛田畠注進状案文、及び文永元年12月日関東御下知等を帯び、御家人役勤仕の地なり、しかるに件の名の内・・・壱町七段、去る文永年中、同国英多郷住人進氏入道に沽却(こきゃく:売り払う)せしむるの処、・・・新式目に任せ、濫妨(らんぼう)を停止せらるべきの由、安胤申すに就きて・・・

これによれば「元久二年右大将家(実朝)」下知状によって御家人であることが明らかな「三嶋大祝安俊代子息安胤」が、文永年中に手放した「田地壱町七段」を、「新式目」に則って取り戻したいという訴訟を起こしていたことが判る。尚「御家人であることが明らかな」とは上記「三島文書」に書いてあることであって決して「明らか」ではない。そしてそこでの「新式目」とは、1297年(永仁5)に9代執権北条貞時が発令した日本で最初の徳政令、永仁の徳政令(関東御徳政)である。

永仁の徳政令は幕府の基盤である御家人体制の維持が主眼であり、御家人が所領を売買、及び質入れすることを禁止すると同時に、既に手放してしまったものも本来の形に戻させようと「非御家人・凡下の買得地は年限に関係なく元の領主(御家人)が領有せよ」という内容ももつ。それほどまでに御家人の弱体化と崩壊が進んでいたということなのだがそれはともかく、その「新式目」の恩恵に預かる為には自分は御家人であると主張し、その証拠を提出する必要があったのである。

まさにそのために史料1の事実を伝え聞いたか、おそらくは河野四郎通信の、一族への下知状を持っていた三嶋大祝安の子息安胤が、史料3「三島文書」を偽造し六波羅探題に提出した。そしてその写しが1300年以降に鎌倉の訴訟関係者の手に届けられ、そこから『吾妻鏡』編纂者の手に渡ったのか、あるいはその訴訟関係者自身が編纂者はだったという推測が成り立つ。

ところで史料2の『吾妻鏡』には「善信奉行す」とあるが、これはどうなるのか。その疑問に対する笠松宏至氏の一文には笑い転げてしまった。

しかし「善信奉行す」はさほどの障害にはならない。なぜかと問われるといささか困惑せざるを得ないのだが、ここでは一応、本文の文調、および「善信」なる人名に由来する直感とでも答えておくほかない。(『中世人との対話』p198)

この当時、鎌倉幕府の訴訟事務方のトップである問注所執事は善信こと三善康信の子孫の大田時連であり、『吾妻鏡』編纂容疑者(?)のトップにあげられている。笠松宏至氏は臭わせるだけで明言はしなかったが、本稿「5.2 実務官僚で顕彰される人々」に指摘した事項の認識は、笠松宏至氏にも共有されているのだろう。

笠松宏至氏は慎重に、「私の立論は、史料3が偽文書であるという推定の上に全てが成り立っている。もしこの点が崩れれば、史料3は『吾妻鏡』の成立時期の問題とは、無縁の存在と化すことは言うまでもない」とされるが、史料3が偽文書では無いということはその実名(じつみょう)を連ねた交名の形式だけからでも、絶対にあり得ないと私は思う。

また笠松宏至氏は、これによって編纂時期が1300年以降(1304年7月まで)と推定出来るのは実朝将軍記の中の第18巻だけであり、所謂『吾妻鏡』前半「源氏三代記」全てをその時期と言い切ることは出来ないと、慎重にことわっておられるが、しかしその心配は無いのではなかろうか。笠松宏至氏が直接取り上げたのは、『吾妻鏡』1205年(元久2)閏7月29日条をめぐってであるが、それ以外にも、編纂の原資料として用いた文書には1297年(永仁5)の永仁の徳政令 に端を発する相論(訴訟)に証拠として持ち出された文書(偽文書)が実に多いようである。

これは五味文彦氏の指摘だが(p297)、頼朝将軍記の最初にも多くの権利関係の文書が載っており、例えば、1180年(治承4)10月16日条の箱根権現への早川本庄の寄進も形式・内容ともに問題が多く、1180年(治承4)10月21日条の伊豆三島社への頼朝の寄進状も問題が多いことは八代国治の段階から指摘されている。

2008.8.20-23、8.28分轄 9.3追記