6.3 明月記の鎌倉伝搬時期

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  1. 吾妻鏡・明治の研究
  2. 吾妻鏡・大正期の研究(八代国治)
  3. 吾妻鏡の構成
  4. 吾妻鏡の原資料
  5. 吾妻鏡の曲筆と顕彰
  6. 吾妻鏡の編纂時期と編纂者
    1.八代国治の2段階説と益田宗の異論
    2.2段階説への笠松宏至の異論
    3.『明月記』の鎌倉伝搬時期
    4.吾妻鏡の編纂者・五味文彦の研究
  7. 編纂の背景と意図
  8. 歴史資料としての価値

 

 

 

明月記 』(めいげつき)は、言うまでもなく鎌倉時代初期を生きた藤原定家の日記であり、その子の藤原為家のその子為相への譲状によると治承年間から仁治年間にかけて書かれているという。定家の死は仁治2年(1241年)であるから、死の直前まで書き続けていたことになる。現存するものは1180年(治承4) から1235年(嘉禎元)までの56年間の分であり、その間の出来事が克明に記録されている。

そして『吾妻鏡』には、1200年 (正治2)3月27日条から1213年 (建保元)までの間で、その正治2年3月27日条を例外とすれば後はみな実朝将軍記だが、その4年間に限っては随所に情報源として利用されている。丸写しな部分も少なくない。八代国治は公卿の日記その他、京系の多く史料が原出典となっているとして計29ヶ所を具体的に紹介したが、その約半数に当たる14ヶ所はこの『明月記』が使われているとした。

八代国治はしかし、その『明月記』がどうしていつ編纂者の手に渡ったのかについてまでは考えなかった。

和田英松はその『明月記』中の記事の鎌倉伝来について、「実務官僚で顕彰される人達・三善康信」で見てきた『吾妻鏡』 1211年 (建暦1)11月4日条の冒頭の「申刻坊門黄門(中納言)使者参着・・・」などから、将軍源実朝の妻の実家の父や兄、つまり坊門信清坊門忠清が「定家の日記を抄写し、六波羅の使者に託して、実朝に通信せしものを、其まま幕府の日記に搭載せしものならんか。」とするが、どうだろうか。その時の事件・出来事を聟や義理の弟に知らせるのに、人の日記を書き写して、ということがあり得るだろうか。定家の『明月記』の写本が出回っていたとしてもである。自分で書けば良いだけだろう。坊門忠清は藤原定家ほどではないにせよ、『忠信卿百首和歌』まである歌人である。

それを考える上で、まず平安時代から鎌倉時代にかけての京の貴族にとって、『日記』なるものが如何なるものであったのかを考える必要がある。

公家にとって日記とは

公家の日記では、藤原実資の『小右記』、 藤原宗忠の『中右記』、平安時代末期には藤原頼長の『台記』、そして九条兼実の『玉葉』などが有名であるが、それらは単なる個人のプライベートな日記であったのではなく、その時代の出来事、宮中でのノウハウの記録、教訓、いわゆる有識故実を子孫に伝え、他家の後塵を拝さず、立派に生き残るようにと書き記したものである。

『有識』とは過去の先例に関する知識を指し、『故実』とは公私の行動の是非に関する説得力のある根拠・規範の類を指す。平安時代後期は『家』の概念と家格が固まりだした時代であるが、同時に前例、即ち有識故実が最重視された時代でもあり、官位官職が一定の家系に固定され始めたのも、その家系故に受け継がれる有識故実が、職の遂行の為には欠くべからざるものであったという側面も無視は出来ない。

現在と違って、そうしたノウハウ本などが出版されている訳ではなく、それを伝えるものは親から伝わった日記と自分が子に伝える日記、希に他家や親戚から借りた日記を書き写したものだけである。従って滅多なことでは人には貸さず、親からそれを伝えられたものが、今でいう嫡子と見なされたほどのものである。「家」を起こすとは、「家」(子孫)に伝える日記を起こすことでもあったことは、九条兼実の『玉葉』を通じてよく語られることである。藤原定家は『小右記』の藤原実資にあこがれ、有識故実で身を立てようともした。従って自身の日記にも力を入れて書き綴っている。

日記の家」と言われた、勧修寺流、高棟流平氏のような、朝廷や摂関家での日記係のような場合には例外もあるが、滅多なことでは家から外へは出さない。というのは貸したら最後、戻ってこないことだってしょっちゅうあったからだ。

更級日記』は同じ日記とは言っても『小右記』や『明月記』とは種類が違うが、定家は部下の菅原為長の家に伝わった菅原孝標娘の自筆原稿を強引に借り受けて書写した。その後菅原家に伝わった原著者の自筆原稿は消えてしまう。返したのかどうかも判らない。そのとき定家が書き写した写本は、人に貸したが戻ってこず、やむなくその前にその写本を写させてやった別の人から、写本の写本を借りてそれを再度筆写した、つまり定家の写本の他人の写本のそのまた定家の写本が定家の手元に残ったというややこしい状況であるらしい。

そのような、公家にとって家格の根幹を成すような日記を、なぜ鎌倉幕府の事務官僚であろう『吾妻鏡』の編著者が目にすることが出来たのかを慎重に考えてみる必要がある。『明月記』は今の様に出版されていた訳ではない。

藤原定家

実朝と定家の交流は有名だが、面識がある訳ではない。定家が実朝の歌を評価し、『万葉集』の写本を送ったというぐらいである。日記を見せる間柄とはとても思えない。定家の 没年は1241年(仁治2)である。

藤原為家

定家が没した1241年以降、子の藤原為家がその日記を受け継いだ。その為家の没年は1275年(建治元)であり、八代国治の説が正しければ、この藤原為家が『明月記』を鎌倉の幕府事務官僚に貸し与えたということになるが、藤原為家は正二位権大納言を極官とする中級の公家であり、藤原為家と幕府事務官僚との交流など見出せない。

為家は晩年、『十六夜日記』で有名な阿仏尼と同棲して、その間に生まれた子冷泉為相(1263年生)を溺愛し、既に正妻の子の二条為氏(1222年生)に与えた播磨国細川荘を、その冷泉為相に与え直すなどして、その後の為氏と阿仏尼と冷泉為相母子との間の訴訟の原因を作る。

冷泉為相

冷泉為相(1263年〜1328年)は父藤原為家が65歳のときの子であり、兄二条為氏より40以上歳が離れている。藤原為家は死ぬ2年前の1273年に『明月記』を溺愛していた末っ子の冷泉為相に譲っている。その異母兄らは原本はおろか写本すら持っていなかった節があると益田はいう。『明月記』については鎌倉時代、南北朝、室町時代を通じて写本は知られておらず、写本が作られるのは江戸時代以降である。その門外不出、被見困難な『明月記』を『吾妻鏡』が利用出来たということは、『吾妻鏡』編纂者と、所持者の冷泉為相の間の相当に特別な関係が前提となるだろう。

為相と兄の間には、先に触れた播磨国細川荘をめぐっての訴訟があり、為相の母阿仏尼は1279年(弘安2年)にそれを幕府に訴えるため鎌倉へ赴いた。このときの紀行と鎌倉滞在のことを記したのが有名な『十六夜日記』である。ただし幕府はすぐに訴訟を受理した訳ではない。弘安年間当時の幕府はそれどころではない。蒙古の使者が国書を携え大宰府へ到着したのは1268年正月である。元寇の1度目文永の役が1274年、2度目の弘安の役が1281年である。1285年(弘安8年)には霜月騒動があった。鎌倉は揺れに揺れていた。

それだけではなく、鎌倉の幕府の裁判権は御家人に対してが原則であり、元寇への対応から、それを非御家人の武士にまで拡大はしたものの、公家の争いの裁判権は本来朝廷にあり、幕府は公家の争いまで持ち込まれることに困惑していたということもある。

阿仏尼が死んだのは1283年(弘安6)ともされるが正確にはわからない。阿仏尼墓と伝えるものが扇ガ谷英勝寺の先にある。恐らくはそれ以降、訴訟を継続するために冷泉為相も何度か鎌倉を訪れ、同時に訴訟の相手である41歳違いの兄二条為氏も何度か鎌倉を訪れ、そうこうするうちに為氏1286年に亡くなるが、その地は鎌倉であったともいう。

1289年(正応2)には将軍惟康親王が送還され、後深草天皇の第六皇子久明親王が将軍となっている。その訴訟がやっと取り上げられ、一旦裁許が下りたのが1290年(正応3)。平禅門の乱はその3年後の1293年(正応6)4月である。

藤原定家の『日記』を受け継いでいた孫の冷泉為相はその訴訟が取り上げられる頃には鎌倉に滞在することも多かったろう。その当時から鎌倉における歌壇を指導し、泉ヶ谷と亀ヶ谷切通との間の藤ヶ谷に住み、藤谷殿と呼ばれている。また娘の一人は鎌倉幕府八代将軍である久明親王に嫁ぎ、久良親王を生んでいる。

久明親王は、1276年生まれで鎌倉に下向し将軍となったのは、14歳(今で言えば13歳)、前将軍惟康親王の娘を最初に娶っていること、次の将軍となる守邦王を生んだその先妻(?)が死んだのは1306年(徳治元)であること、冷泉為相の娘が子久良親王を生んだのが1308年の帰洛以降*1(1310年との史料も)であることなどを合わせ考えれば、『吾妻鏡』編纂中にはまだ冷泉為相の娘(後妻?)は将軍久明親王に嫁いでは居なかったかもしれない。

しかし、他の点から編纂時期として推定される1302年を中心とした前後数年の頃には、親王将軍や北条貞時までも含めた幕府中枢の要人と相当に親密なつきあいがあったと推測はされる。親密でなけれな「御身の娘を将軍に」などという話しを得宗家周辺が持ち出す訳がないだろう。

*1: 「久明親王には将軍となった守邦のほかに久良という子がある。久良の母は、歌道の名門冷泉為相〔1263〜1328.66歳〕の娘であり、久明親王卒去の年の六月、関白道平亭で元服し、従三位、右中将に任ぜられる(翌年左中将、その翌年親王宣下)。この元服の時期から推定すると、久良は久明親王帰洛後の誕生であろう。」(福田豊彦 「第八代 久明親王 」)

状況証拠からの推論で、あくまで可能性の大小の話しに過ぎないが、そうした親密さ故に『吾妻鏡』の編纂者が藤原定家の日記(当時はまだ明月記とうい名が付いていたかどうか)の存在を知り、冷泉為相にそこからの情報提供を依頼し、為相が必要と思われる部分を部分的に書き写して提供したというのが一般的に想定されるケースである。『明月記』自体を借り受ける、京から鎌倉に持ってくるとか、全体の写本を作り与えるなどということはまず考えられない。

そしてその依頼を『吾妻鏡』に埋め込まれた『明月記』の17箇所から推定すると、三代将軍実朝の時代の史料に事欠いた編纂者がその範囲の情報提供を為相に依頼し、為相は実朝とその妻の実家である坊門家に関係する部分を書き写して『吾妻鏡』編纂者に渡した可能性を益田宗は論じている。そうした依頼出来るような可能性は、1290年頃に始まり、『吾妻鏡』編纂年の下限、1304年に近づけば近づくほど高くなっただろう。

尚、播磨国細川庄の相論(訴訟)は1313年(正和2)に至ってやっと確定した。為相側の勝訴である。為相は1323(元亨3)十月に花園天皇に暇を乞い、晩年は多く関東に過ごしたという。1328年に没し、それが本物であるという確証は無いが、その墓と伝えられる宝篋印塔が鎌倉浄光明寺の裏山にある(国史跡)。

2008.8.21-22、8.28分轄、9.8、9.11追記