4.2 吾妻鏡の原史料・公事奉行人と問注所 |
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公事奉行人ここでは八代国治以前から注目されていた公事奉行人達について見ていくことにする。頼朝の時代の初期の文官は右筆と、公事奉行人である。その公事奉行人が後に公文所(政所)や問注所となる。初期においては公事奉行人が公文所や問注所の別当や執事を兼ねたぐらいのニュアンスで考えておいた方が良いかもしれない。 先に原勝郎の項で江戸時代初期の林羅山が『東鑑考』に「廣元邦通俊兼之筆記亦當混雜而在歟(廣元、邦通、俊兼の記、叉交じりてこの内にあるべし)」と書いていることを紹介したが、以下の部分を指していると思われる。
源頼朝に呼び出された俊兼は元々華美な者だったがそのときは特に派手でで、小袖十余領を着、その袖の妻は重色になっていた。頼朝は俊兼の小袖の妻を切り、千葉常胤や土肥実平の質素さを引き合いに出しながら「お前は才能に富んだ者なのに倹約ということを知らない」「今後は華美を止めよ」説教する。その場に居合わせた大江広元や藤原邦通も肝を冷やしたというのである。 これを書いていたのは藤原俊兼とは思えない。するとその場に居た大江広元か藤原邦通だろうか。廣元と邦通の関係からは廣元であるような気がする。名のみを記すのは大概は本人か目下のもの、そして書いている順番からだが。 文治元年(1185)12月6日条にも「広元、善心、俊兼、邦通等沙汰此間事云々」とあり、おそらくは前述と同様の理由で大江広元の可能性が強い。 藤原邦通藤原邦通は頼朝の1180年の旗挙げの初戦、山木判官を襲撃する直前に、酒宴にかこつけて山木兼隆の館に留まり、周囲の地形を絵図にして持ち帰り、それを基に源頼朝達が作戦を練ったというあのときの藤判官代邦通である。結構多彩で、有職故実に通じ、文筆にも長じ、絵や占いその他百般の才能があったという。 頼朝時代の初期において右筆、公事奉行人、供奉人などを務め、1184年(元暦元)10月6日条には新造の公文所の吉書初め(始業式のようなもの)で吉書(最初の行政文書)を書く。このときの初代公文所別当は当時中原性であった大江広元である。あとでまた触れることになるが、高橋秀樹氏は頼朝将軍記の数少ない天候記載の記事の内、公事奉行人の記録からと思われるものは藤原邦通が残した単独記ではないかと推測する。 藤原俊兼『吾妻鏡』での初出は1184年(元暦元)4月23日条、で下河辺政義が俊兼を通じて訴え出、頼朝の命により、俊兼が常陸国目代に御書を代書している。藤原邦通と重なりつつも、それと入れ替わるように良く登場し、逆に邦通は以降は右筆としても陰が薄くなる。 同10月20日条では頼朝御亭東面の廂を問注所とし、三善康信を筆頭に藤原俊兼、平盛時が諸人訴論対決の事を沙汰することになったとある。 しかし最も有名な逸話は先にあげた同年11月21日条だろう。1186年(文治2)3月6日条では義経の行方について静の尋問を行ったことでも有名で、同年8月15日条は、あの有名な西行の登場シーン、流鏑馬の始まりであり、西行の語る流鏑馬の奥義を頼朝は俊兼に書き取らせている。八代国治はこの条のベースを藤原俊兼の記録とする。 同じ京の文官である大江広元、三善康信、二階堂行政ららと比べれば行政実務のトップクラスということではなかったが、奉行人、右筆として常に頼朝の側に居た様子が覗える。 中原親能(藤原親能とも、1143−1208年)明法博士中原広季の子。大江(中原)広元の兄にあたる。大友系図には実父を参議藤原光能とし外祖父廣季に育てられ、中原姓を継いだが後に本姓に復したとしているが、親能は後に中原性から藤原性に改性していることの反映と思われる。また『吾妻鏡』には藤原親能として出てくる方が多い。頼朝に従い武家方の貴重な能吏として信任を得、元歴元年には公文所の設置に際してその寄人となる。その後、明法博士、美濃権守、式部大夫、 掃部頭、 穀倉院別当、正五位下。頼朝の元では1186年(文治2)に京都守護、1191年(建久2)政所公事奉行、1193〜95年(建久4〜6)には鎮西奉行などを務める。 在京することも多く、1183年(寿永2)に義経の軍勢と共に西上して伊勢に入り、翌1184年(元暦元)正月入京したが、このとき京の公家は義経の名を知らず、面識があり頼朝代官として朝廷との連絡に当たった中原親能が大将と誤解したとの話しもある。 九条兼実の摂政就任、平家追討などで頼朝の意を受け、公家の間を奔走する。1199年(正治元)に頼朝が死んだ後に、政子は北条時政ら13人の合議制を敷くが、親能はその一人に選ばれている。1208年(承元2)12月18日66歳で京都において没。立場としてはその記録も『吾妻鏡』に用いられていても不思議は無いが、その証拠はない。 メモ:『平安・鎌倉人名辞典』 中原親能(藤原親能)。ネット上では大分歴史事典のこちらや、斎院次官中原親能 にかなり詳しい。 大江広元大江広元の記録が利用されているとはっきりとしているものは以下の建保2年5月7日条である。
1200年(正治2)5月に掃部頭から大膳大夫に転任し、1203年(建仁3)に辞しており、このときの前大膳大夫が広元である。廣庇(ひろ・ひさし)は居た場所であって廣元の誤記ではない(私は一瞬間違えてしまったが)。1214年(建保2)5月7日条の後半、「当寺」以下が1209年 (承元3)10月15日 に「仰せに依って僧正の申さるる事等を註す」という大江広元の記録(多分後半)からの引用であろうとされる。 広元の子孫達と幕府の書類その大江広元に関連して八代が注目しているひとつに、孫の長井泰秀に関する『吾妻鏡』の記事がある。
北条泰時が大江広元時代の記録が「所処に散在」してしまったものを集めさせ、広元の孫の長井泰秀に送ったという記事である。承久の変の後であり、大江広元の長男・大江親広は既に幕府の要職から解任されているが、1247年の宝治合戦の前であり、四男・毛利季光はその翌年に、五男・海東忠成もその後評定衆となる。このとき次男・長井広時の子・長井泰秀は21歳で、評定衆に上がるのは9年も先だが、記事の通りだとしたらこの長井泰秀が大江広元の嫡流と見なされていたことになる。 広元の次男であった父長井広時は、金沢実時の妹を娶り、その間の子は政泰とあること以外は知られていないが、子の長井泰秀は「関東評定伝」によると18歳で既に左衛門尉となっており、同年更に従五位下に叙爵、23歳で従五位上、26歳で正五位下左衛門大尉、27歳で甲斐守という官職の昇進の早さは確かに鎌倉下向時に既に従五位上であり、その後正四位まで登った大江広元の嫡流としての家格の高さを思わせる。 尚、永原慶二監修・貴志正造編著『全譯 吾妻鏡』4巻 p136 ではこの左衛門大夫を父の大江(長井)広時としている。大江広時の官職が不明であるのでなんとも言えないが、泰秀はこのとき五位の左衛門尉、つまり左衛門大夫である。五味文彦氏もp60で泰秀であろうとしている。 そして「所処に散在」していた広元の時代の重要書類が、北条泰時の手で集められ、その孫の長井泰秀に渡されたということは、実務官僚諸家の筆頭の家としてそれら重要書類の管理を委ねられたということが考えられ、代々それを役目のひとつとして守り伝えたであろうし、それが『吾妻鏡』編纂の元史料のひとつとして利用されたとみてもよいであろう。 長井泰秀は『吾妻鏡』 1242年 (仁治2)6月28日条によれば、30歳で評定衆となり、そして同 1253年 (建長5)12月21日条には単独で「前甲斐守正五位下大江朝臣泰秀卒す(年四十二)」とある。 その子、長井時秀は父の死の翌年に引付衆五番(『吾妻鏡』1254年 (建長6)12月1日条)に任ぜられ、『吾妻鏡』 1257年(正嘉元)10月30日条を始め、1264年、1282年にも東使として京に赴く。その間1265年(文永2)6月11条では評定衆に新任とあり、1271年(文永8)には備前守となる。 その時秀の子で長井泰秀の孫にあたるのが、長井宗秀であり、1265年(文永2)に父が評定衆となった年に生まれ、18歳で引付衆、宮内権大輔となり、1293年(永仁元)5月に29歳で越訴頭人、同年10月、北条貞時が裁判機関の引付衆を廃し、執奏を設置してその最終判決権を掌握して幕政を合議制から得宗独裁へと変えたとされるその執奏に就任している。 執奏7人の中で北条氏以外では2名だけであり、更に7人の中で北条師時に次ぐ若さ、北条貞時政権の重要メンバーであったことが解る。またその2年後には寄合衆、復活した評定衆に在任しており、おそらくは1293年(永仁元)5月段階から寄合衆に加わっていたものと思われる。 その後も1309年(延慶2)3月15日に七番引付頭人を辞すまで、幕府、あるいは得宗家の重職についている。 三善康信(善信)母が源頼朝の乳母の妹であったと伝えられ、頼朝の旗挙げ以前から、京の情勢を知らせていたとされる。『吾妻鏡』の中で京下りの官人として初めて登場するのが1180年(治承4)6月19日条での三善康信であり、それ以前の『吾妻鏡』の記事は以仁王の記事である。五味文彦氏はその記事は京の官人の日記のような、他とはやや異なった形式であるという(五味p95)。このあたりは当時まだ京に居た三善康信の日記が利用された可能性が高いと五味文彦氏は考える。(高橋秀樹氏の異論もある。) また1182年(寿永元)2月8日条には、頼朝の伊勢神宮への願文を三善康信が書いたとあり、その全文が載っている。三善康信が京より鎌倉へ下ったのは、1184年(元暦元)4月14日頃なのだが、京で頼朝の依頼を受けて内職をしていたのだろうか。それとも三善康信が書いたというのが嘘なのか。その名は非常に有名なのだが、実際には三善康信が『吾妻鏡』に登場する回数はさほど多くはない。後で述べる盗作顕彰記事や、わざとらしい登場の仕方から『吾妻鏡』における三善康信(善信)に関する記述はそうとう注意が必要である。それについては「顕彰される人達」の章でまた触れる。 二階堂行政二階堂行政の『吾妻鏡』での初見は1184年(元暦1)8月24日条であり、公文所新造の奉行として登場。同年10月6日の新造公文所の吉書初め(代変わり、新年の最初の行政文書、業務開始の意味)には大江広元の元で寄人(よりうど)として列席している。公文所は後に政所 となり、二階堂行政は政所令から別当となる。あとでまた触れるが奥州合戦の軍奉行は二階堂行政と思われる。その子孫は代々政所執事を務める。 問注所合戦記以外で鎌倉に直接関係する、あるいは鎌倉での記事については、八代国治は問注所の記録から取ったと思われるものを挙げている。八代国治が紹介するのはもちろん漢文の原文だが、ここでは読み下し文でひとつ紹介する。
このときの法令は『鎌倉幕府法』(御成敗式目・新編追加) にある。
大田民部大夫とあるのは三善康信の子の三善康連で、このとき問注所の執事である。その他1243年(寛元元)4月20日条、1254年(建長6)4月29日条その他問注所の記録と見られるものが少なからずあるという。このうちひとつを紹介しておこう。これも大田民部大夫、つまり三善康連の関係である。
すると三善康連の記録も? とも思うが五味文彦氏の方では三善康連の筆録はメインとはされてはいない。筆録ではなく、使われているのは三善康連に届き、康連が所持していただろう記録である。 2008.3.20〜5.23、8.28ページ分割、9.9、9.20 2009.3.4 追記 |
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