4.2 吾妻鏡の原史料・公事奉行人と問注所

AZM_20_02.jpg
  1. 吾妻鏡・明治の研究
  2. 吾妻鏡・大正期の研究(八代国治)
  3. 吾妻鏡の構成
  4. 吾妻鏡の原資料
    1.原史料の類型と京系史料
    2. 公事奉行人と問注所
      公事奉行人
       藤原邦通藤原俊兼、 中原親能
       大江広元三善康信  二階堂行政
      問注所
      
    3.合戦記・合戦注文
    4. ベースとなる筆録・五味文彦氏の研究
    5. 頼朝将軍記・高橋秀樹氏の研究
  5. 吾妻鏡の曲筆
  6. 吾妻鏡の編纂時期と編纂者
  7. 編纂の背景と意図
  8. 歴史資料としての価値

公事奉行人

ここでは八代国治以前から注目されていた公事奉行人達について見ていくことにする。頼朝の時代の初期の文官は右筆と、公事奉行人である。その公事奉行人が後に公文所(政所)や問注所となる。初期においては公事奉行人が公文所や問注所の別当や執事を兼ねたぐらいのニュアンスで考えておいた方が良いかもしれない。

先に原勝郎の項で江戸時代初期の林羅山が『東鑑考』に「廣元邦通俊兼之筆記亦當混雜而在歟(廣元、邦通、俊兼の記、叉交じりてこの内にあるべし)」と書いていることを紹介したが、以下の部分を指していると思われる。

吾妻鏡 1184年 (元暦1)11月21日条
今朝武衛御要有り、筑後権の守俊兼を召す。俊兼御前に参進す。而るに本より花美を事と為す者なり。只今殊に行粧を刷い、小袖十余領を着す。その袖妻色々を重ぬ。武衛これを覧て、俊兼の刀を召す。即ちこれを進す。自ら彼の刀を取り、俊兼が小袖妻を切らしめ給う後、仰せられて曰く、汝才翰に富むなり。盍ぞ倹約を存ぜんや。常胤・實平が如きは、清濁を分らざるの武士なり。所領と謂うは、また俊兼に双ぶべからず。而るに各々衣服已下麁品を用い、美麗を好まず。故にその家富有の聞こえ有り。数輩の郎従を扶持せしめ、勲功を励まんと欲す。汝産財の所費を知らず、太だ過分なりと。俊兼述べ申すに所無く、面を垂れ敬屈す。武衛向後花美を停止すべきや否やの由仰せらる。俊兼停止すべきの旨を申す。廣元・邦通折節傍らに候す。皆魂を鎖すと。

源頼朝に呼び出された俊兼は元々華美な者だったがそのときは特に派手でで、小袖十余領を着、その袖の妻は重色になっていた。頼朝は俊兼の小袖の妻を切り、千葉常胤や土肥実平の質素さを引き合いに出しながら「お前は才能に富んだ者なのに倹約ということを知らない」「今後は華美を止めよ」説教する。その場に居合わせた大江広元や藤原邦通も肝を冷やしたというのである。

これを書いていたのは藤原俊兼とは思えない。するとその場に居た大江広元か藤原邦通だろうか。廣元と邦通の関係からは廣元であるような気がする。名のみを記すのは大概は本人か目下のもの、そして書いている順番からだが。

文治元年(1185)12月6日条にも「広元、善心、俊兼、邦通等沙汰此間事云々」とあり、おそらくは前述と同様の理由で大江広元の可能性が強い。

藤原邦通

藤原邦通は頼朝の1180年の旗挙げの初戦、山木判官を襲撃する直前に、酒宴にかこつけて山木兼隆の館に留まり、周囲の地形を絵図にして持ち帰り、それを基に源頼朝達が作戦を練ったというあのときの藤判官代邦通である。結構多彩で、有職故実に通じ、文筆にも長じ、絵や占いその他百般の才能があったという。

頼朝時代の初期において右筆、公事奉行人、供奉人などを務め、1184年(元暦元)10月6日条には新造の公文所の吉書初め(始業式のようなもの)で吉書(最初の行政文書)を書く。このときの初代公文所別当は当時中原性であった大江広元である。あとでまた触れることになるが、高橋秀樹氏は頼朝将軍記の数少ない天候記載の記事の内、公事奉行人の記録からと思われるものは藤原邦通が残した単独記ではないかと推測する。

藤原俊兼

『吾妻鏡』での初出は1184年(元暦元)4月23日条、で下河辺政義が俊兼を通じて訴え出、頼朝の命により、俊兼が常陸国目代に御書を代書している。藤原邦通と重なりつつも、それと入れ替わるように良く登場し、逆に邦通は以降は右筆としても陰が薄くなる。 同10月20日条では頼朝御亭東面の廂を問注所とし、三善康信を筆頭に藤原俊兼、平盛時が諸人訴論対決の事を沙汰することになったとある。

しかし最も有名な逸話は先にあげた同年11月21日条だろう。1186年(文治2)3月6日条では義経の行方について静の尋問を行ったことでも有名で、同年8月15日条は、あの有名な西行の登場シーン、流鏑馬の始まりであり、西行の語る流鏑馬の奥義を頼朝は俊兼に書き取らせている。八代国治はこの条のベースを藤原俊兼の記録とする。

同じ京の文官である大江広元、三善康信、二階堂行政ららと比べれば行政実務のトップクラスということではなかったが、奉行人、右筆として常に頼朝の側に居た様子が覗える。

中原親能(藤原親能とも、1143−1208年)

明法博士中原広季の子。大江(中原)広元の兄にあたる。大友系図には実父を参議藤原光能とし外祖父廣季に育てられ、中原姓を継いだが後に本姓に復したとしているが、親能は後に中原性から藤原性に改性していることの反映と思われる。また『吾妻鏡』には藤原親能として出てくる方が多い。頼朝に従い武家方の貴重な能吏として信任を得、元歴元年には公文所の設置に際してその寄人となる。その後、明法博士、美濃権守、式部大夫、 掃部頭、 穀倉院別当、正五位下。頼朝の元では1186年(文治2)に京都守護、1191年(建久2)政所公事奉行、1193〜95年(建久4〜6)には鎮西奉行などを務める。

在京することも多く、1183年(寿永2)に義経の軍勢と共に西上して伊勢に入り、翌1184年(元暦元)正月入京したが、このとき京の公家は義経の名を知らず、面識があり頼朝代官として朝廷との連絡に当たった中原親能が大将と誤解したとの話しもある。

九条兼実の摂政就任、平家追討などで頼朝の意を受け、公家の間を奔走する。1199年(正治元)に頼朝が死んだ後に、政子は北条時政ら13人の合議制を敷くが、親能はその一人に選ばれている。1208年(承元2)12月18日66歳で京都において没。立場としてはその記録も『吾妻鏡』に用いられていても不思議は無いが、その証拠はない。

メモ:『平安・鎌倉人名辞典』  中原親能(藤原親能)。ネット上では大分歴史事典こちらや、斎院次官中原親能 にかなり詳しい。

大江広元

大江広元の記録が利用されているとはっきりとしているものは以下の建保2年5月7日条である。

吾妻鏡 1209年 (承元3)10月15日条
明王院僧正御所に参らる。将軍家御面談有り。園城寺興隆の事、豫州刺史禅室以後源家代々の間、当寺に帰せしめ給う事、具に旨趣を述ぶ。前の大膳大夫廣庇に候ぜしむ。 仰せに依って僧正の申さるる事等を註す。これ本寺の貴徳なり。

吾妻鏡 1214年(建保2)5月7日条
園城寺回禄の間、唐院並びに堂舎・僧坊を修造せらるべきの由その沙汰有り。駿河の前司惟義朝臣・豊前の守尚友等を以て惣奉行と為す。宇都宮入道蓮生(山王社並びに拝殿)、佐々木左衛門の尉廣綱(四足門)、源三左衛門の尉親長(鐘楼)、内藤左衛門の尉盛家(預坊)已下、十八人の雑掌を定めらるる所なり。

当寺は、源家数代崇重の寺なり。所謂豫州刺史禅室(頼義朝臣)、一男快誉阿闍梨を以て智證大師の門徒に加え、三男刑部の丞義光を以て新羅明神の氏人と為して以降、鎮守府将軍(義家朝臣)殊に当寺の丹祈を恃む。而るに最愛の御息女盲し給う。錦織僧正行観これを加持し奉り、忽ち以て復本す。将軍感悦の余り、三度僧正を拝し、吾が子孫永く和尚の門徒に帰すべしと。幕下将軍は、両箇の庄園を以て一寺の依怙と為す。また鎌倉中に数宇の伽藍を建立し、公顕・公胤の両僧正を以て供養導師と為す。剰え御鬢髪を青龍院に納めらる。これ等の芳躅に依って今儀に及ぶか。

1200年(正治2)5月に掃部頭から大膳大夫に転任し、1203年(建仁3)に辞しており、このときの前大膳大夫が広元である。廣庇(ひろ・ひさし)は居た場所であって廣元の誤記ではない(私は一瞬間違えてしまったが)。1214年(建保2)5月7日条の後半、「当寺」以下が1209年 (承元3)10月15日 に「仰せに依って僧正の申さるる事等を註す」という大江広元の記録(多分後半)からの引用であろうとされる。

広元の子孫達と幕府の書類

その大江広元に関連して八代が注目しているひとつに、孫の長井泰秀に関する『吾妻鏡』の記事がある。

『吾妻鏡』 1232年 (寛喜4)12月5日条

故入道前の大膳大夫廣元朝臣存生の時、幕府の巨細を執行するの間、壽永・元暦以来京都より到来する重書並びに聞書、人々の款状、洛中及び南都・北嶺以下、武家より沙汰し来たる事の記録、文治以後の領家・地頭所務條々の式目、平氏合戦の時東士勲功の次第・注文等の文書、公要に随い右筆の輩方に賦り渡し、所処に散在す。武州この事を聞き、季氏・浄圓・圓全等をしてこれを尋ね聚めしめ、目録を整え、左衛門大夫(長井泰秀)に送らると。

北条泰時が大江広元時代の記録が「所処に散在」してしまったものを集めさせ、広元の孫の長井泰秀に送ったという記事である。承久の変の後であり、大江広元の長男・大江親広は既に幕府の要職から解任されているが、1247年の宝治合戦の前であり、四男・毛利季光はその翌年に、五男・海東忠成もその後評定衆となる。このとき次男・長井広時の子・長井泰秀は21歳で、評定衆に上がるのは9年も先だが、記事の通りだとしたらこの長井泰秀が大江広元の嫡流と見なされていたことになる。

広元の次男であった父長井広時は、金沢実時の妹を娶り、その間の子は政泰とあること以外は知られていないが、子の長井泰秀は「関東評定伝」によると18歳で既に左衛門尉となっており、同年更に従五位下に叙爵、23歳で従五位上、26歳で正五位下左衛門大尉、27歳で甲斐守という官職の昇進の早さは確かに鎌倉下向時に既に従五位上であり、その後正四位まで登った大江広元の嫡流としての家格の高さを思わせる。

尚、永原慶二監修・貴志正造編著『全譯 吾妻鏡』4巻 p136 ではこの左衛門大夫を父の大江(長井)広時としている。大江広時の官職が不明であるのでなんとも言えないが、泰秀はこのとき五位の左衛門尉、つまり左衛門大夫である。五味文彦氏もp60で泰秀であろうとしている。

そして「所処に散在」していた広元の時代の重要書類が、北条泰時の手で集められ、その孫の長井泰秀に渡されたということは、実務官僚諸家の筆頭の家としてそれら重要書類の管理を委ねられたということが考えられ、代々それを役目のひとつとして守り伝えたであろうし、それが『吾妻鏡』編纂の元史料のひとつとして利用されたとみてもよいであろう。

長井泰秀は『吾妻鏡』 1242年 (仁治2)6月28日条によれば、30歳で評定衆となり、そして同 1253年 (建長5)12月21日条には単独で「前甲斐守正五位下大江朝臣泰秀卒す(年四十二)」とある。

その子、長井時秀は父の死の翌年に引付衆五番(『吾妻鏡』1254年 (建長6)12月1日条)に任ぜられ、『吾妻鏡』 1257年(正嘉元)10月30日条を始め、1264年、1282年にも東使として京に赴く。その間1265年(文永2)6月11条では評定衆に新任とあり、1271年(文永8)には備前守となる。

その時秀の子で長井泰秀の孫にあたるのが、長井宗秀であり、1265年(文永2)に父が評定衆となった年に生まれ、18歳で引付衆、宮内権大輔となり、1293年(永仁元)5月に29歳で越訴頭人、同年10月、北条貞時が裁判機関の引付衆を廃し、執奏を設置してその最終判決権を掌握して幕政を合議制から得宗独裁へと変えたとされるその執奏に就任している。

執奏7人の中で北条氏以外では2名だけであり、更に7人の中で北条師時に次ぐ若さ、北条貞時政権の重要メンバーであったことが解る。またその2年後には寄合衆、復活した評定衆に在任しており、おそらくは1293年(永仁元)5月段階から寄合衆に加わっていたものと思われる。

その後も1309年(延慶2)3月15日に七番引付頭人を辞すまで、幕府、あるいは得宗家の重職についている。

三善康信(善信)

母が源頼朝の乳母の妹であったと伝えられ、頼朝の旗挙げ以前から、京の情勢を知らせていたとされる。『吾妻鏡』の中で京下りの官人として初めて登場するのが1180年(治承4)6月19日条での三善康信であり、それ以前の『吾妻鏡』の記事は以仁王の記事である。五味文彦氏はその記事は京の官人の日記のような、他とはやや異なった形式であるという(五味p95)。このあたりは当時まだ京に居た三善康信の日記が利用された可能性が高いと五味文彦氏は考える。(高橋秀樹氏の異論もある。)

また1182年(寿永元)2月8日条には、頼朝の伊勢神宮への願文を三善康信が書いたとあり、その全文が載っている。三善康信が京より鎌倉へ下ったのは、1184年(元暦元)4月14日頃なのだが、京で頼朝の依頼を受けて内職をしていたのだろうか。それとも三善康信が書いたというのが嘘なのか。その名は非常に有名なのだが、実際には三善康信が『吾妻鏡』に登場する回数はさほど多くはない。後で述べる盗作顕彰記事や、わざとらしい登場の仕方から『吾妻鏡』における三善康信(善信)に関する記述はそうとう注意が必要である。それについては「顕彰される人達」の章でまた触れる。

二階堂行政

二階堂行政の『吾妻鏡』での初見は1184年(元暦1)8月24日条であり、公文所新造の奉行として登場。同年10月6日の新造公文所の吉書初め(代変わり、新年の最初の行政文書、業務開始の意味)には大江広元の元で寄人(よりうど)として列席している。公文所は後に政所 となり、二階堂行政は政所令から別当となる。あとでまた触れるが奥州合戦の軍奉行は二階堂行政と思われる。その子孫は代々政所執事を務める。

問注所

合戦記以外で鎌倉に直接関係する、あるいは鎌倉での記事については、八代国治は問注所の記録から取ったと思われるものを挙げている。八代国治が紹介するのはもちろん漢文の原文だが、ここでは読み下し文でひとつ紹介する。

吾妻鏡 1254年(建長6)5月1日条
人質の事沙汰有り。その法を定められ、今日施行せらると。所謂御制以前質券を入れ流すと雖も、御制以後訴訟を経るに至らば、早く一倍の弁を致すべし。人質の事は沙汰に及ぶべからず。凡そ御制以後質人の事は、一向停止すべきの由と。此の如く申し沙汰すべきの旨、相州より問注所に仰せらると。勧湛・實綱・寂阿奉行たり。

このときの法令は『鎌倉幕府法』(御成敗式目・新編追加) にある。

一、人質の事、人倫売買の御制以前、訴訟を致し問状を給うに於いては、證文に任せ 質人を流すべきなり。次いで御制已前、これを入れ流すと雖も、御制以後、訴訟を経るに至らば、早く一倍の弁を致し、人質の事沙汰に及ぶべからず。凡そ御制已後、人質の事は、一向停止に従うべきなり。この趣を以て奉行せしめ給うべきの旨、仰せ下され候なり。仍って執達件の如し。
 建長六年五月一日 勘甚判 實綱判 寂阿判
 大田民部大夫殿

大田民部大夫とあるのは三善康信の子の三善康連で、このとき問注所の執事である。その他1243年(寛元元)4月20日条、1254年(建長6)4月29日条その他問注所の記録と見られるものが少なからずあるという。このうちひとつを紹介しておこう。これも大田民部大夫、つまり三善康連の関係である。

吾妻鏡 1254年(建長6)4月29日条
評定。西国庄公の地頭等所務の事その沙汰有り。これ本地頭の所務は、往昔の由緒に依るべし。故に先規の例を追い、新儀の非法を止めしむべきなり。新地頭は率法に定めらるるの上は、その外全く濫吹を停止すべきなりてえり。この趣を存じ下知を加うべきの由、即ち五方引付に相触れらると。また唐船の事沙汰有り。その員数を定めらる。即ち今日これを施行せらる。
 唐船は、五艘の外これを置くべからず。速やかに破却せしむべし。
 建長六年四月二十九日 勧湛 實綱 寂阿
 筑前の前司殿
 大田民部大夫殿

すると三善康連の記録も? とも思うが五味文彦氏の方では三善康連の筆録はメインとはされてはいない。筆録ではなく、使われているのは三善康連に届き、康連が所持していただろう記録である。

 

2008.3.20〜5.23、8.28ページ分割、9.9、9.20 2009.3.4 追記