4.4 ベースとなる筆録・五味文彦氏の研究 |
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ベースとなる筆録・提出された文章以上、部分的に比較的明らかなもの、古くから指摘されてきた部分をまず見てきたが、ここでは残る推定はかなり困難な部分、(1)の「ベースとなる筆録」、(2)の「地頭・御家人、寺社などから多くは訴訟の証拠、由緒として提出された文章」について見ていく。 五味文彦氏の研究1989年『吾妻鏡の方法』における五味文彦氏のアプローチを簡単に説明しておく。 五味文彦氏は、原史料を探る手がかりに氏名の表記に目を付けた。「氏(うじ)」や「性(かばね)」や「名字」と「実名(じつみょう、氏名の名:ファーストネーム)」は、平安時代から鎌倉時代にかけて全く性格の異なる受け取り方をしている。「実名」を呼ぶのはその者を支配しているに近い意味合いが当時はあった。 五味氏はそれを『吾妻鏡』と同時代の武家(この場合は武士というより、鎌倉幕府の御家人、公家=朝廷に対して、武家=鎌倉幕府という意味で用いられる)の日記から確認する。単純にいうと、例えば「廣元・邦通折節傍らに候す」とあれば、それを記したのはその中で目上のものか、あるいはその2名より目上の者だろうと。 その検証過程は決して単純ではないが、尼将軍の時期より後の部分については、その「実名表記と文書所載が『吾妻鏡』の原史料を探るのに有効な方法であった」(p129)とする。それを確認したあと、同様の手法で源氏三代将軍記を分析していったのだが、次のページでも見ていくが、頼朝将軍記は誰かの日記によったと見られる部分は極端に少なく、むしろ例外的とさえ言える。 頼朝将軍記五味文彦氏は、政所奉行人二階堂行政(前述:奥州合戦軍奉行 )の筆録が利用された可能性が高いとするが、この時期は治承から寿永年間(1180〜1184年)に限らず、ベースと言えるような筆録の想定が非常に難しい時期と言える。このページは「ベースとなる筆録」と銘うったが、頼朝将軍記については逆に「ベースとなる筆録などあるのか?」という疑問形になってしまう。そしてそこに目立つのはむしろ「地頭・御家人、寺社などから、多くは訴訟の証拠、由緒として提出された文章」である。そして、まるで物語のような精彩に富んだ躍動感あるれる文章である。そのことから五味文彦氏も、嘉禎(1235〜1237年)の頃に、原『吾妻鏡』とでもいうべき「頼朝将軍記」が成立していた可能性も指摘している。 頼朝将軍記については近年高橋秀樹氏の研究があり、次のページでそれを紹介する。 頼家・実朝将軍記政所奉行人:二階堂行光二階堂行政の子で二階堂行村の兄、二階堂氏で初めて政所執事となる。 1218年 (建保6)に源実朝が右大臣となって、『吾妻鏡』には12月20日条にそのための政所始めが記されており、「右京兆並びに当所執事信濃の守行光及び家司文章博士仲章朝臣・・・」と、北条義時(右京兆は右京権大夫の唐名で、このときは北条義時のこと)の次席で、政所の実務官僚のトップとなったことが解る。 この時代は源実朝の時代であるが、実権はその母の北条政子にあり、ちょうど朝廷における天皇と院政の関係にも似ている。二階堂行光はその尼将軍政子の側近として様々な場面に登場するが、その中でも重要なものが、源実朝が公暁に暗殺された後の『吾妻鏡』1219年(承久元)2月13日条に「寅の刻、信濃の前司行光上洛す。これ六條宮・冷泉宮両所の間、関東将軍として下向せしめ御うべきの由、禅定二位家申せしめ給うの使節なり。」とあり、政子の使者として朝廷に赴き、その交渉を行っていることである。慈円の『愚管抄』にもそのときの行光のことが記されている。 このときの交渉は、後鳥羽上皇の子を鎌倉将軍に迎えたいというものであったが、既に北条氏打倒を考えていた後鳥羽上皇に拒絶される。しかしこの時期の鎌倉政権の行政事務、及び朝廷との外交関係実務はこの二階堂行光を中心に動いていたともみられ、『吾妻鏡』のこの時期の記録の多くはこの二階堂行光の筆録、あるいは所持した資料によっていると見られている。 サブ三善康信(前述 ) 二階堂行村(前述:和田合戦軍奉行) 外部の資料『明月記』、『天台座主記』、『金塊和歌集』、「三島(伊豫大山積神社)文書」(後述) 藤原頼経・頼嗣将軍記恩賞奉行(恩沢奉行):中原師員大江広元(中原広元)を出した明経道中原氏の庶流貞親流で、師員の父師茂は中原親能(藤原親能)、広元(大江広元)兄弟の従兄弟にあたる。その縁で北条泰時の時代に鎌倉に下向し、初代評定衆の一員に加わったものとみられる。1231年春の除目で大外記補任、その直後の同年5月に摂津守に任官している。 1236年 (嘉禎2)12月26日条に「去る十八日の除目の聞書到着す。武州(北条泰時)左京権大夫を兼ね給う。師員主計の頭に任ず」とある。連署執権北条時房死後には政所下文に北条泰時の次ぎに署判を加えている。中原師員は将軍頼経の側近でもあったが、その立場は、京と鎌倉、評定衆の評定と政所、恩賞奉行としては執権と将軍の結節点となっており、執権対将軍という中では中立的な立場がそもそもの役割だったのだろう。そのため宮騒動においても、藤原定員のように連座することも、後藤基綱のように警戒されることもなく、政権中枢であり続けた。 恩賞奉行(恩沢奉行):後藤基綱(前述:承久合戦軍奉行)サブ・藤原定員将軍頼経の側近で、おそらくは京より共に下った者か(未調査)。既に子に将軍職を譲り「大殿」となっていた頼経を担いだ名越光時らの陰謀に加担し定員は召し籠められ、頼経は鎌倉追放となる。このとき後藤基綱も共に上京する。 サブ・平盛綱有名なのは1231年 (寛喜3)9月27日条の「盛綱諫め申して云く、重職を帯し給う御身なり。縦え国敵たりと雖も、先ず御使を以て左右を聞こし食し、御計有るべき事か」と北条泰時を諫めたという下りである。実名のみで表記されている。盛綱は1234年(文暦元)以降は得宗家被官・御内人(みうちびと)の筆頭。 外部の資料経将軍記 『六代勝事記』、 『海道記』 宗尊親王将軍記御所奉行(1263年(弘長3)7月5日まで):二階堂行方御所中雑事奉行、和泉前司、評定衆・二階堂行村の子 、1249年(建長元)の引付設置とともに引付衆、1252年(建長4)宗尊親王を迎えるために京へ上る、1253年(建長5)、4番引付頭人(とうにん)、1259年(9月)評定衆、1263年(弘長3)7月5日に御所中雑事奉行を中原師連に交替。同年10月8日に出家 御所奉行(上記以降) 中原師連(なかはら もろつら:生没 1220-1283年)中原師員の子、外記を経て縫殿頭。5代将軍となった藤原頼嗣、宗尊親王、惟康親王の3代に仕え、1263年(弘長3)7月5日に二階堂行方の後を継いで宗尊親王の御所奉行、同年11月22日には御息所の奉行も引き継ぐ。1264年(文永元)評定衆となった。 鎌倉時代末期には摂津氏と呼ばれて幕府中枢の事務官僚を世襲する。その家系は「将軍側近の家」との性格をもっていたが、師連の子の親致の代から中原性を藤原性に改性し、また「将軍側近の家」のまま得宗家にも接近しその近臣ともなっている。 『太平記』巻10 「高時並一門以下於東勝寺自害事」で、北条高時の面前で腹を切った摂津刑部太夫入道々準は師連の直系の孫にあたる。 サブ:矢野倫長三善康信の4代目の子孫で引付衆から評定衆・得宗家寄合。官職は外記(げき:儒学・文筆の家の下級官職、書記官)を経て対馬守 番外:北条実時ところで、これはどこから伝わったものだろうか。
1260年 (文応元) 7月6日条に、宗尊親王が二階堂行方を介して、小侍所の北条実時と北条時宗に対して、前年随兵を命じた者の内、大須賀朝氏と河曽沼光綱が勝手に弟や子息を代役として「各々自由不参(両名は勝手にさぼった)」が、誰が許したのか詰問した。それに対して、実時と時宗は、口頭で人を介してでは正確に伝わらないからと文書にして両名連署し、それを工藤光泰を介して北条時頼に見てもらう。 しかし時頼に「状に載せるの條、頗る以て厳重に似たるか」(つまり文書での回答では角がたつだろう)と怒られて、結局口頭で説明したというのであるが、そのときに時頼にボツにされた「連署請文」が『吾妻鏡』の7月6日条に載っているのである。川添昭二氏は『日蓮とその時代』 (山喜房佛書林 1999年)でこう書く。
たしかにそうだと思うが、もうひとつ、ここではこのボツになった返答書をどうして『吾妻鏡』の編纂者が転載することが出来たのだろうか、その方も気になる。二階堂行方か、工藤光泰か、それとも北条時頼? ここは北条実時の筆録がその孫の北条貞顕によって、あるいはそこから編纂者の下に提供されて編集されたと考えた方が自然だろう。 2008.3.20〜5.23、8.28ページ分割、9.9、9.18、2009.2.15分離更新 |
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