4.5 頼朝将軍記・高橋秀樹氏の研究 |
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高橋秀樹氏の研究頼朝将軍記頼朝将軍記が他の将軍記とは性格が異なる点は明治以降の研究者の等しく認めるところであるが、高橋秀樹氏は「吾妻鏡原資料論序説」(2007年)において、当時の日記の基本的スタイルである天候の記載に着目した。 例えば上にあげた画像の中頃からが、『吾妻鏡』の事実上最後の記事、1266年 (文永3)の7月4日条であるが、見ての通り「4日 甲午 天晴、申の刻雨降る」から始まる。そしてその交名のあと、右の画像にある『吾妻鏡』の最後の頁、その最後の2行が本当に最後の記事、7月20日条であり、冒頭に「庚戌 天晴る」と天候を記した後、「戌の刻前將軍家御入洛。左近大夫將監(北条)時茂朝臣六波羅亭に著御す。」とある。 このようなパターンが当時の日記の基本的スタイルである。こうした天候記載の記事は、頼朝将軍記以外の五代の将軍記では平均でも50%、この宗尊将軍記では70%、その中でもこの最後の年、文永3年の45日の記事では実に91%にも及ぶのに対し、頼朝将軍記では、平均の1/10に近い5.5%しか無いことに着目し、その僅かに見られる天候記載の記事について高橋秀樹氏は以下の点を指摘する。
以上から、「日記」が原史料としてもちいられた可能性がある僅かなものの中においてすら、公事奉行人の「日記」が原史料としてもちいられた量はそれほど多いとは思えない(むしろ無きに等しい?)とする。 もちろん五味文彦氏が指摘するように二階堂行政が「行政」と実名で登場する回数は多い。二階堂行政の活躍は多数見られ、他を圧倒している(五味p133)。二階堂氏に伝わる行政時代の記録が利用された可能性は大いにある。しかしそれは二階堂行政の日記では無かっただろう。五味文彦氏の推論は、もしも源氏三代将軍記以外と同様に誰かの日記、筆録が骨格となっていたとすれば、との仮説の上でなのだが、その仮説は果たして成り立ちうるのだろうか、というのが高橋秀樹氏の投げかけた問題であるように思える。 では原史料のほとんどは何に依ったのだろうか頼朝将軍記にはもうひとつの統計的な特徴がある。引用されている文書の量についても、頼朝将軍記は他の将軍記と比べて異質である。明示的に引用されている文章(下文等)は、天候記載とは逆に、頼朝将軍記が他を圧倒し、15年間で184日もある。頼朝将軍記以外は62年にも及ぶにも関わらず62日分の記事に過ぎない。頼朝将軍記に引用されたものは寺社や御家人らに対する安堵状など権利関係文書が圧倒的に多いが、頼朝将軍記以外ではそうした例は少ない。有ってもその宛所は「某殿」となっていて、下書き、または雛形からの引用である。 北条泰時が大江広元時代の記録が「所処に散在」してしまったものを集めさせ、広元の孫の長井泰秀に送ったというその文書類も重要な原資料となっているのだろう。特に後白河法皇との政治折衝のリアルな記録の大半はそれに負っていると見なして良いだろう。しかしそれは重要ではあっても、量としては頼朝将軍記全体の中でのごく一部に過ぎない。 幕府内に核となる筆録が無かったとすれば、では何を原史料に頼朝将軍記が編纂されたのかを考えると、幕府外の資料に目が向かざるをえない。 引用以外の地の文でも、この時期にはいくつかの御家人の家伝書のようなものからと思われる記事が非常に多い。千葉氏についてはあとで触れるが、それ以外にも例えば下河辺行平など、頼朝に感心されたとか褒められたという記事が沢山出てくる。また、頼朝の下文についても下河辺政義・行平が絡むものが多数あり、それらの子孫が家に伝わる文書を、『吾妻鏡』編纂時に資料として提出した可能性が高い。先にあげた陰陽師の家の日記も確かに鎌倉で幕府に仕えていた家ではあろうが、幕府の記録、日記とは言い難い。 引用・転載されたものの内、先に触れた「後白河法皇との政治折衝のリアルな記録」以外については尚更である。
幕府外の資料「八代国治の吾妻鏡編纂材料」でも触れたが、外部の資料として1988年平田利春氏の「吾妻鏡編纂の材料の再検討」(日本歴史11月号第486号)に上がっているものを参考までにあげておく。(尚ここでは京の公家の日記『明月記』等は別に述べているので除外する。)
また『吾妻鏡』記載の宛所から以下のものも『吾妻鏡』編纂時、あるいはその少し前にそれぞれの神社から提出されたものであろうと見られてきた。
八代国治、平田利春氏があげたもの以外で、同じように宛所からそう判断されるものとして、高橋秀樹氏は以下のものもあげている。(偽文書云々は私の追記であるが。)
そのほか、鶴岡八幡宮寺僧侶の日記である「鶴岡八幡宮一切経並両界曼荼羅供養記」があり、『吾妻鏡』の1194年(建久5)11月13日条、同14日条、15日条の原史料とされる。 上記において偽文書とされるものが非常に多いが、一例として熊谷二郎直實への安堵状を読み下しであげておく。
この書状は八代国治が『吾妻鏡の研究』(p157)で全文を紹介し、偽文書と断定した。「實万人に勝れて前懸けし、一陣を懸け壊り、一人当千の高名を顕わす」などいかにもである。同様の偽文書自画自賛には有名な『吾妻鏡』 1192年(建久3)8月5日条の千葉常胤が特別に貰った安堵状に共通する。 先に鶴岡八幡宮寺僧侶の日記「鶴岡八幡宮一切経並両界曼荼羅供養記」は、『吾妻鏡』の1194年(建久5)11月13日条、同14日条、15日条の原史料としたが、しかしその文量は国史大系普及版で僅かに5行である。この例でもわかる通り、原史料と判明しているのは、『吾妻鏡』の中では非常に少量であり、それら微かな兆候から全体を推測せざるを得ないというのが実情である。 2008.3.20〜5.23、8.28ページ分割、9.9、9.18、2009.2.15、3.3 更新 |
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