6.4 吾妻鏡の編纂者・五味文彦の研究

  1. 吾妻鏡・明治の研究 AZM_10_10.jpg
  2. 吾妻鏡・大正期の研究(八代国治)
  3. 吾妻鏡の構成
  4. 吾妻鏡の原資料
  5. 吾妻鏡の曲筆と顕彰
  6. 吾妻鏡の編纂時期と編纂者
    1.八代国治の2段階説と益田宗の異論
    2.2段階説への笠松宏至の異論
    3.『明月記』の鎌倉伝搬時期
    4. 吾妻鏡の編纂者・五味文彦の研究
  7. 編纂の背景と意図
  8. 歴史資料としての価値

 

 

 

五味文彦氏の研究

そして近年、五味文彦氏が八代国治の推測を具体的に検証する形で研究していったのが、2000年の『増補 吾妻鏡の方法』におけるその「増補」部分、「『吾妻鏡』の筆法」である。

五味文彦氏は1989年の増補前の『吾妻鏡の方法』における「吾妻鏡の構成と原史料」において、ベースとなる筆録に二階堂行政二階堂行光後藤基綱中原師員二階堂行方中原師連をあげている。 4.3 吾妻鏡のベースとなる筆録参照)

2000年の『増補 吾妻鏡の方法』において五味文彦氏はどのようにアプローチしたか。氏が最初に目をつけたひとつは盗意図的な顕彰の中でも既に見てきた実務官僚に関する部分である。その面々をもう一度記しておこう。三善康信二階堂行光大江広元である。それ以外にやはり顕彰されているのは北条時房三善康連(大田康連)、平盛綱北条実時らである。

三善氏・大田時連

文筆の家でもっとも顕彰されているのは三善康信・康連親子である。八代国治が『吾妻鏡』の編纂者達を政所と問注所の吏員である大江広元の子孫(毛利、長井)、二階堂行政の子孫、三善康信の子孫達(大田、町野)ではないかとしたことは既に述べた。また八代が『明月記』からの盗作とした多くの記事、または偽文書と指摘した記事には三善康信の顕彰が込められているものが非常に多い。以前 に引用した松宏至氏の一文をもう一度あげておく。

しかし「善信奉行す」はさほどの障害にはならない。なぜかと問われるといささか困惑せざるを得ないのだが、ここでは一応、本文の文調、および「善信」なる人名に由来する直感とでも答えておくほかない。(『中世人との対話』p198)

しかし八代は誰という特定まではしなかった。また、『吾妻鏡』の前半を北条時宗の頃とおいていた。しかしそれらの記事が1300年前後の編纂ということになれば、その子孫で該当するのは1293年(永仁元)から1321年(元亨元)まで問注所執事であった三善氏の大田時連 となる。

二階堂行貞

もうひとつは北条泰時、時頼以外の北条氏庶流に関わる顕彰と出産記事である。得宗家と天皇家を別格として除けば、北条有時北条政村北条時輔北条宗政北条時兼、とそこまではまだ理解出来るが、一人だけ文士の家柄が混じっている。1222年 (貞応元)9月21日条に、二階堂行政の孫、二階堂行盛に子が生まれたと。

『吾妻鏡』 1222年 (承久4) 9月21日条  籐民部大夫行盛の妻男子平産す。

そのとき生まれたのは1302年に政所執事に再任された二階堂行貞の祖父、二階堂行忠 である。

実はこれはかなり重要なポイントになる。一人だけ文士の家柄が混じっているからだけではない。それが二階堂行貞の祖父であることが重要なのである。二階堂氏の祖・行政は政所別当となるが、その後の政所の事実上のトップは政所執事であり、その政所執事でのポストは行政の子二階堂行光 が就任し、以降その子孫がその職を世襲する。

『吾妻鏡』 1218年(健保6)12月20日条
去る二日将軍家右大臣に任ぜしめ給う。仍って今日政所始め有り。右京兆並びに当所執事信濃の守行光・・・・

政所執事としての2代目が籐民部大夫行盛、つまり二階堂行盛である。その後政所執事の職は若死になどで行盛の3人の子の家を移り1283年(弘安6)に3人の子の中では末弟の二階堂行忠が就任。そして1290年(正応3)にその孫の二階堂行貞 に受け継がれる。ここまでは何れも前任者の早死にで、かつ全て二階堂行盛の子、孫、曾孫である。

二階堂行盛から政所執事の職はその子二階堂行泰(筑前家)、二階堂行頼と続くが、行頼が若くして死に、一時は父行泰が再度就任するが、その死によって、行頼の弟、二階堂行実が就任する。
しかしそれも早死にして、二階堂行盛の子の二階堂行綱(伊勢家)、その子二階堂頼綱と続くが頼綱も就任2年後に死去。
政所執事の職は高齢の叔父で二階堂行盛の子の二階堂行忠(信濃家)が引き継ぐ。そしてその次ぎは行忠の子が早死にしていたので、孫の二階堂行貞が22歳で継いだ。 (細川重男 『鎌倉政権得宗専制論』 p63)

そこで異変が起きる。丁度北条貞時が平頼綱を討った(平禅門の乱)年、1293年(正応6)10月に、平頼綱の時代の人事の否定の一貫だったのだろうかそれとも若すぎたのか、二階堂行貞は政所執事の職を罷免され、これまでは政所執事を出したことのない二階堂行村((隠岐流)の祖孫・二階堂行藤 (出羽備中家)が10月19日に政所執事となる。

そしてその二階堂行藤が1302年(乾元元)8月に没したあと、3ヶ月の空白期間をおいて二階堂行貞が再任されるが、この空白の3ヶ月は得宗北条貞時の元での人事の迷走を物語っている。

その二階堂行貞が『吾妻鏡』の編纂者の一人と目されているのだが、行貞の祖父、で二階堂行盛の子行忠の誕生を『吾妻鏡』に書き込んだのが二階堂行貞だとするならば、それは単なる自分の先祖の顕彰を越えて、二階堂行藤とその子・時藤の隠岐流に対して、二階堂行光二階堂行盛から二階堂行忠、そして自分へとつながる政所執事の家系としての正当性を主張するものとも考えられる。ひとつ確認しておく。問題となった記事は 1222年 (承久4) 9月21日条、第26巻「頼経将軍記」である。まだ5歳だが。

二階堂氏についてはその出産はツボを突いているように見えるが。出産記事をどれだけ重視できるかということもある。たとえば1188年(文治4)1月22日条には政子の女房であった比企藤内朝宗の妻越後局が男子を産んだとの記事がある。

三善氏・矢野倫長の子孫

死亡記事では、たまたま見つけたのだが、第36巻「頼嗣将軍記」 1244年((寛元2)6月4日条には「同日前の対馬の守従五位上三善朝臣倫重死去す(年五十五)」とある。三善倫重は矢野倫長の父である。矢野倫長は第43巻「宗尊将軍記」 1253年(建長5)9月26日条に実名で登場する。

『吾妻鏡』 1253年(建長5)9月26日条
倫長の奉行として、殿中に於いて内々沙汰の事有り。これ山門領の外、山僧を以て預所職に補せしむ事停止せらるべきの由なり。去る二十日評定の時その沙汰有り。件の禁制は、去る延應元七月二十六日これを定められ、六波羅に仰せられをはんぬ。而るを能登の国御家人高畠の太郎式久彼の式目案文を備進するの間、校合の為写し進すべきの旨、御教書を備後の前司康持に下さるるの処、禁忌たるに依って、同二十三日東入道唯明に仰せらる。唯明これを写し進す。仍って校合せらるるの処相違無し。評定の時事書の正文を持参すべきの由、重ねて仰せ下さるる所なり

五味文彦氏はこの記事を矢野倫長自身が書いたものであろうとする。(p106) その父の死去まで『吾妻鏡』にあるとすれば、矢野倫長の子か孫かが『吾妻鏡』の編纂に関わっていたという推測も出来ないだろうか。ただし、推測はできてもそれほど強い根拠はない。資料提供はほぼ確実と見られるが、資料提供者自体はかなり広範のようである。尚その子矢野倫経(倫景)も寄合衆在籍が確認されているという。(細川重男 『鎌倉政権得宗専制論』 p66 ) 

北条氏・金沢貞顕

一般に編纂者は、幕府内部の有力者金沢北条氏の周辺であろうとする見方も強い。北条貞顕(崇顕)は25歳で六波羅探題として上洛して京都以西の責任者になり、以降何度か六波羅探題となりながら、自身で文献の写本にはげみ金沢文庫の充実をはかっている知識人として知られる。

後述する『吾妻鏡』の北条本の原本は金沢文庫本とされ、その金沢文庫との関係からも、『吾妻鏡』編纂全体の統括者として考えやすい人物である。その可能性は否定出来ないし、資料の提供はほぼ確実と思う。しかし自ら筆を取っての編纂だったのかについてはなんとも言えない。

『金沢貞顕』 (吉川弘文館・人物叢書 2003年)の著者・永井晋は前述の「有隣」の座談会で、あの時期の状況では、金沢貞顕はそこまでやっているゆとりはないだろうという。

 

大江氏・長井宗秀

大江広元も顕彰されているところから、その子孫で1300年前後に寄合衆、評定衆であったのは長井宗秀が浮かびあがるが、大江広元は顕彰記事と言ってもそれほど露骨なものはなく、敬意を表した程度とも取れる。また金沢文庫に宗秀の子長井貞秀の『鎌倉治記』(『吾妻鏡』のことか)の借り出しの書状が残っていることから、なんとなくだが、編纂者の候補ではあっても、その可能性は少し薄いのではないかという気もする。もちろん資料提供は確実になされていただろうが。

中原氏・摂津親致

ところで中原師員中原師連の筆録はどう伝わったのだろうか。そこで1302年の幕府要人を見ると、中原師連の子の摂津親致が八番引付衆頭人となっている。おそらくそこから編纂者の下に伝わった筆録が貸し出されたのかもしれないが、しかし摂津親致自身が編纂者のひとりということは考えられないのだろうか。しかしこれもそうだという理由が見つからない。つまり中原師員、中原師連親子についてはあまり顕彰記事も舞文と思われるものも見あたらないのである。もちろんそれは大田時連と摂津親致の性格の違いによるものかもしれないが。

『吾妻鏡』の編纂者

こうして見ていくと、文筆の家ではもっとも顕彰されている三善康連の子孫で、時期に該当するのは1293年(永仁元)から1321年(元亨元)まで問注所執事であった三善氏の大田時連 であり、それを中心に二階堂行貞が編纂者であった可能性は、他の候補者に比べて格段に高いと言えるのではなかろうか。

 

2008.3.20〜5.15、8.19-23、8.28分轄、9.12、9.23 更新