付2.1 室町時代の吾妻鏡 |
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<付論>
系統吾妻鏡は金沢文庫にあった原本が、小田原の後北条氏の手に渡り、それが徳川家康の手に渡ったと思われやすい。100年ぐらい前はそう思われていた。しかし何十年も前からそれは否定されている。ではどういう経路をたどって我々の元へ伝わったのか。 八代国治の説(1913年 p43)ではその系譜は2グループあり、北条本、黒川本、京都図書館本などは応永年間(1394〜1427年)に金沢文庫本により書写されたものの系統を引き、吉川本はそれとはまったく別系統の関西伝来本とした。関西伝来本にはほかに島津本、前田本、伏見宮家本も含めている。 その関西伝来本の出所だが、編纂者の候補として最も有力な太田時連は鎌倉幕府滅亡後、室町幕府に仕えて、その日記『永仁三年記』は太田の家に伝えられ、やがて室町時代に加賀前司町野淳康が継承したという。それらのことから太田時連とともに京に行ったものが、その日記同様に室町時代に他家の所持に移り、吉川本の元となったのかもしれないと推測する向きもある(五味 2000年 p314)。 一方、これも『吾妻鏡』編纂者のひとりとして考えられる二階堂氏の古文書には、15世紀末に「吾妻鏡以下古記明鏡之次第」を写し送ったとある。この記録にははっきりしないところもある(後述)が、しかし魅力的である。八代国治のいう関西伝来本には更に2系統に分かれる? そうすると、『吾妻鏡』の編纂者達が原本を3部作ったか、あるいは担当部分以外を互いに写本(それは原本と言っても良いだろう)して保持していたものが、室町時代にそれぞれ人手に渡っていったと想像することも出来るのだが・・・。なかなかそう簡単には問屋が卸してくれない。八代がそれに言及して以降、ここについても研究が進んでいる。 この書状の差し出し人は室町幕府評定衆の家に生まれ10代将軍足利義稙の近臣、武家故実に通じ、三条西実隆をはじめ、当時の公家や文化人たちとも交流の深かく、歌人として有名で『和歌打聞集』などの撰者もつとめた二階堂行二(政行)、つまり薩摩国の二階堂氏ではない。宛所は島津氏の庶流で1490年(延徳2)から翌1491年(延徳3)まで京での活動が知られる島津忠廉(法名忠好)である。この書状は1491年春に比定される(川添昭二氏の研究による)。 二階堂行二(政行)の家系はまだ調べていないが、室町幕府の高官、将軍の側近という点からは、二階堂行貞の孫二階堂行元の山城流、年代的には1449年(宝徳元年)から室町幕府政所執事であった山城守・二階堂忠行の子か孫ぐらいか。もしそうであるなら、吾妻鏡編纂に関わったとも推測される二階堂行貞から伝わったということもあるかもしれない。と言ってもそれは「だったら良いな」程度であり、そうでなくとも当時の京の室町幕府奉行人(将軍側近の実務官僚)同士で、先例となる鎌倉幕府の文書を書写しあっていたのだろう。そしてそれは室町幕府奉行人清元定の写本、所謂清元本同様の断簡に過ぎなかった可能性もある。 蒐集の経緯が奥書に記されている吉川本では、1501年(文亀元)頃、『吾妻鏡』の写本42帖を手に入れることが出来たが、尚その間に20数年分の欠落があったという。あとでまた触れるが右田弘詮(陶弘詮)はその欠けている部分を必死に集めた。そして右田弘詮(陶弘詮)が最初に手に入れた写本42帖も、ひとつの写本から書き写されたものである保証は無い。その段階で既に寄本、つまり別系統の複数の写本から編纂したものかもしれない。 いわゆる北条本系では徳川家康がある時点で48巻まで集めていたが、現存する原本を見ると、古い2種類の料紙(楮紙と修善寺紙)の43冊以外は後から補ったもののように見える。そしてその43冊に含まれる系図部は文亀年間(1501年から1503年)に書かれ、享禄〜天文年間(1528年〜1554年)に追筆がなされている。系図部以外でも古い楮紙のページ冊には校訂の跡があり、修善寺紙で補入した10冊は別の写本よりの書写と思われ、そこには更に別の写本を用いた校訂がなされている。 益田宗氏らの研究によれば、所謂北条本ですら金沢文庫本系と言い切れるのかどうかが怪しくなる。吾妻鏡は早くに散逸し、室町時代には既に揃いの完本の形では伝えられておらず、断片的な抄出本や、数年分の零本の形で伝わるものがほとんどであったのではないかとされる。それらを集めて補訂が行われたものが右田弘詮、徳川家康の手に渡り、そこで更に欠損分の収集が行われて、48巻、あるいは51巻という形に復元されていったということになる。(益田 p331) 要するに、元の系統が2系統3系統あったとしても、ちょうどポーカーのカードのようにシャッフルされて配られたものから、更にほかのカードを集めて補訂していった複数の版が研究者の目の前にあるという訳だ。ハートの13枚の内10枚までを一括して手に入れた者など居ない。そしてそれらの中から研究者が苦労をしてノイズを取り去り、1冊(ではないが)にまとめたものが、新訂増補国史大系版 『吾妻鏡』ということになる。 巻首の目録一般に『吾妻鏡』は52巻からなると言われる。それは北条本にも島津本にも毛利本にも、黒川本(黒川本で現存するものはその部分の写のみ)にもあり、若干は異なるところがあってもほぼ以下のように全52巻の目次と各巻の収録年次が記されている為である。45巻が無いというのも、この目録には「四十五卷 建長七年(乙卯)」と書かれているからである。(尚黒川本は巻数は異なり、略2冊を1冊にまとめたかのようである。この段階では吉川本にはわざと触れない。) この目録には各巻の年次のほかに系図、執権次第、記録なども含む。 そして後に触れる黒川本の目録部分の終わりに「応永十一年(甲申)八月二十五日以金沢文庫御本書畢」とある。応永11年とは1404年である。また北条本の該当部分は破れて修復されていたが「応永十一年(甲申)八月」の中の「甲の字の右方上部の墨跡歴然」(八代 p28 かなりきわどい推測だと思うのだが)であることから、北条本(及び黒川本)全体が金沢文庫本から応永11年書写本の系統を更に書写したものだと思われていた。北条本(及び黒川本)全体ということについては現在では否定的だが、少なくともこの目録部分の元は1404年に金沢文庫の蔵書から書写したものであることは確かだろう。 ではそれが、最初から『吾妻鏡』の巻首に、今見る形、またはそれに近い形で編集されていたのだろうか。各巻には本当に通しの巻数がふられていたのだろうか。これまでに研究者の手によって明らかにされてきた『吾妻鏡』の成り立ちからすればそうではなかったとの見方が有力である。だいいち目録部分の終わりに「応永十一年(甲申)八月二十五日以金沢文庫御本書畢」とあるのならそれは目録部分にのみかかるものではないのか。 益田宗氏は「吾妻鏡の伝来について」の中で、目録は本巻とは別に南北朝時代頃に金沢文庫で作られた単行本で、そのとき文庫に収蔵されていた『吾妻鏡』の目録の形で作られたものが、後から系図、執権次第、記録などが追記されていったものではないかとする。それが右田弘詮(陶弘詮)や、徳川家康が、あるいはそれ以前に同じようにバラバラになった『吾妻鏡』を捜し尋ねて集積していった人達が、集積部分を1本の写本にまとめる際に、本巻の冒頭に編集して全体の総目次のようにしてしまったのではないかと。少なくとも編纂時には無く、相当(数十年の範囲だが)後に金沢文庫で作成されたとしか思えないはっきりした理由は以下の部分である。
巻26の最後元仁元年(1224年)から、巻27の始まり安貞二年(1227年)の間の3年分がこの目録には無い。3年分はその年代ではほぼ1巻に相当する。しかし巻数はそれを無視して巻26、巻27と続く。この3年間は編纂者が何らかの、しかし明確な意志をもって最初から編集しないと決めていたのだろうか。そんなことは無い。現に吉川本ではその嘉禄元年(1225年)〜安貞元年(1227年)の3年分が1冊を成している。島津本にもその間の嘉禄元年〜安貞元年分があり、あとでまた触れるがその差分が1668年(寛文8年)に『吾妻鏡脱漏』として、更に翌年『東鑑脱纂』として木版で出版された。 それらの事から推測すると、その目録の編集当時、金沢文庫には建長7年分の一冊が現存しており、それで巻45という巻数がふられたが、嘉禄元年(1225年)から安貞元年(1227年)の3年分1冊は既に無かった為、巻数がふられなかったということになる。前後の関係から、そのとき存在していたとすれば1巻を構成していただろう寿永2年、建久7、8、9年(この分は頼朝期の最後であり、将軍期毎の編纂とすれば、編纂が永遠に中断された時点で未完成だったのかもしれない)、正元元年、弘長2年、文永元年その他、年単位で欠けている12年分を巻数が飛ばしていく合理的な理由が見つからない。 吉川本は1巻の範囲は大体北条本の目録にある巻と一致するが(しないところもある)、右田弘詮は便宜上巻数をふったが、欠けている年もあるのでこれを受け継いだ者が、欠落部分を新たに手にいれることが出来たら、巻数はふり直すようにと記している。北条本目録の巻数もそういうものだったのではないか。ただし、それ以降欠落部分が見つかるどころか、どんどん欠落四散していったようだが。 以上から、全52巻という話しは、『吾妻鏡』の編纂時のものではないということが確認される。そして、『吾妻鏡』の欠損は、もっとも恵まれていたはずの、おそらくは原本のひとつ(編纂者間の写本は原本として)が直に伝わっていただろう金沢文庫においてすら始まっていたということになる。現在想定されている『吾妻鏡』の編纂最終年から応永11年(1404年)まで100年。益田宗氏が想像する目録の作成時期、鎌倉幕府滅亡後の南北朝時代はその中間。単純に考えると『吾妻鏡』編纂から50年前後である。 諸文献に見る吾妻鏡江戸時代の項でまた触れるか、近藤守重は『御本日記続録』で、江戸開幕以前の文献に見える『吾妻鏡』の記述について
などを紹介し、「是等を観て当時此書の流伝を知べきなり」としている。 また、江戸時代まで流布された俗説に触れ、永禄4年(1561年)の「旅宿問答」に「是は先代九代の間を記す書なり、六十巻あり」とすることに対して近藤守重は、「永禄四年の撰なれば、当時六十巻の本も有りしやと聞ゆれど、諸古本みな今本の巻数なれば六十巻も言、俄に信ずべからず」とする。 2008.3.20〜5.6、9.5、9.16、9.23、10.14 11.23、2009.2.11、3.30 |
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