付2.3 江戸時代の吾妻鏡研究
  1. 吾妻鏡・明治の研究  AZM_10_27.jpg
  2. 吾妻鏡・大正期の研究
  3. 吾妻鏡の構成
  4. 吾妻鏡の原資料
  5. 吾妻鏡の曲筆と顕彰
  6. 吾妻鏡の編纂時期と編纂者
  7. 編纂の背景と意図
  8. 歴史資料としての価値

<付論>

  1. 吾妻鏡の周辺・嘉元の乱
  2. 和田合戦に見る吾妻鏡と明月記
  3. 龍福義友氏の「吾妻鏡の虚構」
  1. 室町時代の吾妻鏡 
  2. 吾妻鏡の諸本 
  3. 江戸時代の吾妻鏡研究
    概要 
    徳川家康 林羅山 菅聊卜 
    伊勢貞丈 榊原長俊 大塚嘉樹 
    近藤守重 宮地仲枝
  4. 流布している俗説
  5. 参考文献

首書:
江戸時代の研究という点では、知る範囲では戦後はほとんど触れられていないような。まとまったものとしては八代国治が大正初期の『吾妻鏡の研究』で触れているぐらいです。明治28年の高桑駒吉編『吾妻鏡集解』に解説が無いかと思ったのですが、解説はありませんでしたが、そのかわり江戸時代の林羅山『東鏡綱要』、近藤守重の『御本日記続録』、伊勢貞丈の『東艦不審問答』、榊原長俊の『東鑑異本考』が。神奈川県立図書館・資料室書庫の方には色々と便宜をはかって頂きました。古活字本の『新刊吾妻鏡』まで。ここにお礼を申し上げます。

概要

江戸時代での吾妻鏡研究で有名なのは林羅山(道春)であり、慶長古活字本の印行に関わり、徳川家康の為に『吾妻鏡』の年表とも言える「東鏡綱要」上下2冊を作成し、また黒田藩の家臣に書き与えた『東鑑考』は漢文325字の短文ながら、「誰の手によったものかは不明だが、北条氏周辺の文筆の者か。 大江広元、藤原邦通、藤原俊兼が書いたと思われるものもこの中に混じっている。 (意訳)」と、現在から見ても的を射た解説を行っている。
徳川幕府の元では、書物奉行であった頃の近藤守重が『右文故事』『御本日記続録』などの中で、まとまった著述を残しており、家康収集のいわゆる北条本の経緯や、その他当時知られていた別の写本についても紹介し、比較を行っている。近藤守重の著述は現在の『吾妻鏡』諸本の研究においては重要史料とされ触れられることが多い。また1806年(文化3)に幕府より六国史以後江戸幕府成立までの実録編纂、そして武家勃興期よりの職名・武具・文書類についての記録の蒐集が命じられた塙保己一 の和学講学所には、家康が収集したものとは別の『吾妻鏡』の写本(現在黒川本と呼ばれる)があり、資料のひとつとされていた。

星野恒によれば徳川光圀によって開始された『大日本史』でも『吾妻鏡』を採用しているが、しかし参照の仕方はあまり正確ではなく、同じ事柄に対して『源平盛衰記』や『平家物語』に依っているものもあり、『吾妻鏡』の影響はそれほど大きいとは見られない。(星野恒 「吾妻鏡考」『史学叢説』1 冨山房 p596)

『吾妻鏡』を研究していたのは儒家、国学者であり、主に有職故実の面からの研究、武家故実であった。たとえば『吾妻鏡』についての著述のある伊勢貞丈、榊原長俊、大塚嘉樹は江戸時代に知られる有職故実の大家である。幕府の書物奉行近藤守重の研究は「諸本」についてが中心であるが、儒家、国学者達はその内容の理解の方向で研究を進め、校訂の面では古活字本寛永版の菅聊卜の功績は現在の国史大系本にまで影響を及ぼし、伊勢貞丈、榊原長俊、大塚嘉樹らは、いわば「吾妻鏡辞典」とも言えるような注解を行って難解な『吾妻鏡』の理解を助けた。このうち伊勢貞丈、榊原長俊は上級の旗本であった。

その中で大塚嘉樹は、『吾妻鏡』編纂者による北条氏顕彰の為の曲筆を指摘し、またその編纂時期を「泰時時頼等の権勢盛んなるときの事にて、追々書集めたるようなり。」(カタカナをひらがなに改めた)と指摘したが、その『東鑑別注』は大正初期まで草稿のまま世に出ることはなく、江戸時代の『吾妻鏡』研究に影響を与えたとは言い難い。
その他、現在では土佐の宮地仲枝も知られ、「東鑑の考」において「東鑑は鎌倉草創のそのかみより、史官の記せる書にはあるべからず、北条家の盛なる頃にて、むかしを尋ね記したるかの家の記録なるべしと思うことあまたあり」と6点を指摘しているが、その当時にどれほど知られていたかは不明である。
近藤守重、大塚嘉樹らの研究は、当時としては非常にレベルの高いものであり、現在の我々にも重要な情報を与えてくれるが、しかし江戸時代全般の中では散発的であり、同時代の研究に大きな影響を与えたとは言い難い。こうして見ると、江戸時代での吾妻鏡研究の第一はその校訂かもしれない。菅聊卜による寛永版が後につながる最大の成果だろう。そしてその次ぎは「吾妻鏡の諸本」で触れた島津本を元とした差分「吾妻鏡脱漏」、『東鑑脱纂』により、現在知られる内容がほぼ揃ったことだろう。

鎌倉地理史では江戸時代のものとして「沢庵和尚鎌倉巡礼記」、「玉舟和尚鎌倉記」、「金兼藁」、水戸光圀の「鎌倉日記」、「新編鎌倉志」、などか知られる。「沢庵和尚鎌倉巡礼記」は、沢庵和尚が相手によって内容を少しずつ変えながら書き与え、更に版木が起こされて一般に流布したため広まったが、「玉舟和尚鎌倉記」、「金兼藁」は江戸時代には誰もその存在を知らなかった希本であった。「玉舟和尚鎌倉記」に至っては書画骨董の世界で大仏次郎の手に渡り、やっと研究者の目に触れるようになったものである。「金兼藁」も明治以降に林家の蔵書から原本が見つかったものである。それと同じようなことがここでも言える。「沢庵和尚鎌倉巡礼記」に相当するものは『吾妻鏡』では林羅山、伊勢貞丈、榊原長俊、近藤守重だろう。「玉舟和尚鎌倉記」は大塚嘉樹の『東鑑別注』、「金兼藁」に該当するものが宮地仲枝の「東鑑の考」ということになるか。また「新編鎌倉志」に相当するほど広まったものは無かったのではないだろうか。

(以下原本ではカナ交じり文は濁点も無いが、濁点有りのひらがなに改めた)

徳川家康

道春年譜に「大神君常読東鑑」と、また西笑承兌(せいしょうじょうたい)の跋文に「大将軍家康公治世之暇習弄此書」と。文量として最も書いているのは近藤守重だろうと思う。ただし林羅山と西笑承兌の場合は吾妻鏡の権威付け、近藤守重はその立場から当然のこととして家康顕彰があるだろうし、彼もまた林羅山と西笑承兌の記述からそれを知ったに過ぎない。

どの程度読み込めたのかという実際の処は不明であるが、家康がこれから築きあげる江戸幕府と武家支配の構想を練るために、鎌倉時代の幕府の記録(関東記録・吾妻鏡)を大いに参考とした、ことは確かだろうと思わせるものに、林羅山に作成させた「東鏡綱要」がある。また、慶長17年に林羅山(道春)に『吾妻鏡』と『源平盛衰記』の異同を校合させている。

林羅山(道春)

「東鏡綱要」

八代国治の『吾妻鏡の研究』によると林羅山は家康の為に重要な記事を抄出して上下2巻の「東鏡綱要」を作る。上巻は1巻より20巻まで、下巻はそれ以降52巻までである。『吾妻鏡』の内から重要な事件を抄出して、漢文でそれを簡潔に要約した年表、あるいは目次のようなものである。

榊原長俊は『東鑑異本考』の中で「東鑑部類」のひとつとしてこの「東鏡綱要」に触れ「書中摘於綱要之文為見出設書也」(何故かここだけ漢文)としている。これは説明をするより、現物を見た方が早いかもしれない。の明治22年の『吾妻鏡備考』巻1(高桑駒吉纂訂)に載っている。

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例えて云えば、『吾妻鏡』巻首の目録は「新訂増補国史大系『吾妻鏡』」(吉川弘文館)の目次のようなもの。何巻は何年とか、何年から何年までぐらいのことしか書いていない。それに対する「東鏡綱要」は、堀田璋左右の『訳文吾妻鏡標註』の目録や、貴志正造訳注『全訳吾妻鏡』の細目次のようなものである。私が参照するメインは貴志正造訳注の『全訳吾妻鏡』だが、この細目次がとても便利である。「新訂増補国史大系」本の目次は途方に暮れる。徳川家康もそうだったんだろう。家康がこれを林羅山に作らせたということは、実際に家康は『吾妻鏡』を側らに置き、自分でも時々紐解いていたのかもしれないと思わせる。

「東鑑考」

この当時、林羅山は学者として吾妻鏡の第一人者と目されていたのだろう。吾妻鏡北条本を家康に送ったとされる黒田長政は1617年(元和3)9月に家臣を羅山の元へ遣わし、吾妻鏡を読修させたが、その家臣が帰るときに林羅山が書き渡したのが『東鑑考』であり、漢文325字の書司情報のようなものである。

八代国治は「黒田如水は」としたが如水の子黒田長政の間違いではないだろうか。黒田如水の遺品として北条本が1604年(慶長9)に家康に贈られたのだから元和3年に如水はこの世に居ない。

『吾妻鏡必携』(2008年)で関幸彦氏が書かれた「『吾妻鏡』とは何か」に「元和3年(1217)に林羅山は『東鑑』を著し」と書いているのは八代が「東鑑考」として紹介したもののことだと思われる。もちろん元和3年(1217)は1617年の誤植である。その直後に「林家の林道春が」と書いているのは誤植ではないが、まるで林羅山と林道春が別人のように読める。誤解を与えるのではなかろうか。

そこでは以下の点を簡潔に解説している。

  • 『東鑑』は51巻あって治承4年から87年間が記されているが、年単位で欠けているものが8年分あり、上総介広常の誅殺、頼朝の死、頼経の元服などが脱落している。
  • 『東鑑』が誰の手によったものかは不明だが、北条氏周辺の文筆の者と思われる。
  • 大江広元、藤原邦通、藤原俊兼が書いたと思われるものもこの中に混じっている。
  • 34巻以降は省略や重複、また誤りが多い。
  • 南北朝時代から室町時代の臨済宗の僧である義堂周信(ぎどう しゅうしん:1325-1388 )が鎌倉を訪れた際、三善氏の子孫の町野氏から『吾妻鏡』を見せてもらったとその日記『空華日工集』にあるので、『吾妻鏡』は町野氏に伝わったものではないか。
  • 『吾妻鏡』の名の「吾妻」は東国を指し、「鏡」は『水鏡』『増鏡』など歴史書に使われているものであり、関東の鑑であるので今は『東鑑』と号する。(号したのは林羅山かもしれない)
  • 神武天皇から光考天皇までは書記や実録など(「六国史」のこと)の公式な史書があるが、宇多天皇、醍醐天皇の時代から以降はそうした史書は無く、「国家之治乱、君臣之興廃」は十の内1つか2つぐらいしか知ることは出来ない。その中でこの『東鑑』は、いにしえの書記や実録には劣ると言えどもこの書で、鎌倉時代のことを知ることが出来る。

全文は八代国治の『吾妻鏡の研究』(p7)にある。その中でも原勝郎が注目したのは「東鏡未詳撰、盖北條家之左右執文筆者記之歟」の部分であったことは既に述べた通りである。

しかしこの林羅山の卓見は、それほどは浸透はせず、江戸時代には一般に『吾妻鏡』は「鎌倉幕府の日記」と理解されていたようである。それに疑念を表明した国学者も居たが、それらは草稿のまま世に出ることはなく、あるいは江戸から遠く離れた土佐に埋もれていた。

 

菅聊卜

菅聊卜は寛永版を出版したことで知られるが、その事蹟などは必ずしも明らかではない。姫路の人で、兄の菅玄同(得庵)は藤原惺窩の門弟であり、林羅山とは同門の学者である。

寛永版での林道春(羅山)の跋 (冒頭画像の前頁)

土師氏玄同■其舎弟聊卜來而語余曰方今世之見東鑑者■■皆多也而郡郷村里之號氏族姓尸之字官家僧道之目古今名物之称方言俗談往往未易讀也况又其間文字紕繆書冩脱略乎見者病之今聊卜點倭訓于其旁其或所未安者乃闕疑而竢後之是正因附剞■氏新鏤於梓蓋為此書之一得耶願乞一言以託不朽余始拒之曰豈外求哉子宜而為之既而復乞之至于再三而不已於是記其所以語余者如是及至其板成則紙貴而益售耶可不謂便於童蒙之見者乎若夫國家之盛衰世道之得失可以■戒可以資治者姑待異日之

AZM_10_24.jpg菅玄同と弟聊卜が羅山のもとを訪れ、『吾妻鏡』に記載されている地名・人名をはじめとする呼称などが読みやすいとは言えず、慶長活字版の元となった写本の段階からだろうが文字の誤り、また書写の段階で文字が脱落していると思われる部分も多く、それらを正して本文の傍らにその読みを付して刊行したい、と述べたという。

その校訂は、例えば1185年(元暦2)4月15日条に頼朝の推挙無く官職にあずかった者の内22名について悪し様に罵っている下文があるが、その内義経の郎等であった佐藤兵衛尉忠信について「是ハ抽ニ、ヲヅル」とあり、意味が通じなかったものを「是ハイタチニ、ヲヅル」とし(イタチには抽に似た字がある。しかし何故か『吾妻鏡』はここだけ漢文ではない。)、また同年5月24条にある有名な「腰越状」の中に、現在では「あまりさえ義経五位の尉に補任の條、当家の面目、希代の重職、何事かこれに加えんや」となっている部分があるが、元は「当家之重職」であって何のことやチンプンカンプンだったものを、菅聊卜が「面目希代之」の文字を補って意味が通じるようにしたものである。その他「許」を「訴」、「湯」を「陽」など、書写の繰り返しの内に字を間違えて伝わったとしか思えない部分の修正など数千箇所に及ぶという。

これによって意味不明が多く、読み辛かった『吾妻鏡』の文意がやっと明快になり、林道春(羅山)の跋にある「及至其板成則紙貴而益售耶可不謂便於童蒙之見者乎」という状態になって、以降これが原型として『吾妻鏡』は広まっていった。ただしそれで完璧になった訳ではなく、その後の江戸時代の研究の中で色々研究、指摘されてはいったが、それが刊行の『吾妻鏡』に反映されることは無く、その後の本格的な校訂は「国史大系」を待つことにまる。

伊勢貞丈

伊勢家は代々足利将軍家の嫡男に作法等を教えていた室町幕府政所執事の家柄で、武家の礼法故実に詳しく、貞丈も江戸幕府の旗本として諸儀式にあたる。『貞丈雑記』(ていじょうざっき)、『安斎随筆』、『軍用記』、『武器考証』など著書は、『伊勢書目』によれば、173種に及ぶ江戸時代の有職故実の第一人者として知られる。

その伊勢貞丈(ていじょう:1717〜1784)にも『吾妻鏡』についての著作があり、1778年(安永7)の『東艦不審問答』は記事の不審箇所を問答形式で著したもの。また1783年(天明3)の『東艦纂補』などがある。

「不審問答」というと、八代国治が指摘したような「建暦元年3月19日条と23日条にある記事は『明月記』その他によれは2年の誤りではないか」とか、「この文書は偽文書ではないか」といった内容を思い浮かべるがそうではない。一例をあげれば、『吾妻鏡』第34巻1241年 (仁治2)2月23日条 にある「今日、若君御前の魚味・御着袴・御馬の召始め等の事、その沙汰あり。佐渡前司これを奉行す」に関して、「右魚味とは如何の訳にや」と問い

魚味の事古書に多く見たり、小児は陽気盛にて脾胃弱き物也、魚は熱物にて厚味なる物なれば、古代は小児に魚を忌て食しめず三四歳に至りて初て魚を食はするを魚味の祝と云、公家方にてある事なり。(くひぞめの祝なり、・・・)

などと問答形式で解説を加えたもので、今で言えは「吾妻鏡Q&A」のようなものであるが、如何にも有職故実の大家らしい内容である。『東艦不審問答』は高桑駒吉らの編による『吾妻鏡集解』に載っている。

 

榊原長俊

榊原長俊は宝暦4年と天明3年の2回駿府勤番をつとめたことのある旗本で、『駿河国志』を著し、また「将軍家駒場鷹狩図」を描いたことでも有名であるが、江戸時代の武家故実の第一人者とされる伊勢貞丈(ていじょう)に学び、自信も有職故実、武家故実で名をなしている。

『東鑑異本考』を著し、慶長活字本、同別本、寛永本、仮名本、水谷古写本、東鑑脱漏を紹介し、また永禄4年の「旅客問答」に触れて、この頃には60巻あって範囲は九代の将軍全てをカバーしていたらしく、それが惟康親王、久明親王、守邦親王三代の間の分が失われて現在の52巻となったらしい、実に惜しいことである、としている。この「旅客問答」の説については、その後近藤守重が冷静に否定している。『吾妻鏡集解1』に『東鑑異本考』が載っている。

尚「板本東鑑」と呼んでいるのが寛永本のことであるが、知っていたのは杉田良庵与求板印本と、の野田庄右衛門寛文元年求板印本の後期のもののようである。野田庄右衛門寛文元年求板印本はつい先日、実物を見る機会があった。

『東鑑部類抄』で吾妻鏡の注釈類を集めて解説し、1792年(寛政4)4月『東鑑要目集成』を著して、天地、器財、言語、異名等の部類(分類)でいろは順に項目を並べて注解した。ひらたく言えば「吾妻鏡辞典」のようなものである。(『東鑑要目集成』は高桑駒吉の『吾妻鏡集解』にその付録を除き収録されている。)

その「ふ」の中では1252年(建長4)8月17日条の「深澤里の金銅八丈の釈迦如来像を鋳始め奉る」について、明治時代の末まで、そのときの大仏が現在の大仏であると思われていたのに対し、既に江戸時代に、榊原長俊は「現在の大仏は阿彌仏であってこのときのものではない。1369年(応安2)の台風で倒壊。更に1495年(明応4)の大津波で押し流されたと新編鎌倉志にあるのでその後作り直されたものであろう」と書いている。

更に「し」の中には1180年(治承4)10月18日条「走湯山僧徒解状」にある「新皇並右兵衛殿」の「新皇」に疑念を表明している。これはもちろん以仁王のこととそれ以前からされているのだが、榊原長俊は意訳すれば「それはおかしい」としている。後に八代国治はこの「走湯山僧徒解状」を偽文書を収録してしまったものであろうとした。

大塚嘉樹(よしき)

大塚嘉樹(1731年(享保16)−1803年(享和 3. 6.29))は通称「市郎左衛門」、字は「子敏」あるいは「敏卿」、号は蒼梧(そうご)・「老邁陳人」と言い、京都で学び、のちに江戸で活躍する。当時屈指の有職故実の大家であった公卿滋野井公麗に学び、『服飾類聚』、『校正装束拾要抄』、『蒼梧随筆』などを著している。

大塚嘉樹は天明年中(1781年から1788年)に、先の榊原長俊他数名と『吾妻鏡』の会読(輪読会のようなものか)を行っていた。榊原長俊が1792年(寛政4)4月に著した『東鑑要目集成』のベースも大塚嘉樹らとの会読の成果を膨らませていったものだろう。大塚嘉樹は『東鑑別注』30冊その他を著し、その中で「最勝王勅」(1180年(治承4)4月27日条の以仁王令旨にある文言)を疑っているのは先の榊原長俊と共通する。おそらくはその会読の席で「おかしいんじゃないか」と議論になっていたのだろう。

また1186年(文治2)4月8日条の静御前に鶴岡八幡宮で舞をさせたときの記事、1189年(文治5)4月18日条の北条時房(当初時連)の元服記事。1192年(建久3)5月28日条の泰時の記事などを、『吾妻鏡』編纂者による北条氏顕彰の為の曲筆と断定した。

文治2年の静の舞は有名すぎるぐらい有名で説明はいるまい。頼朝と比べて政子は実に格好いい。

建久3年の泰時の記事ほど露骨な顕彰は『吾妻鏡』でも珍しい。「江間殿(北条義時)の息童金剛殿(泰時)歩行して興遊せしめ給うの処」、多賀の二郎重行が下馬の礼を取らずに乗馬したままその前を通り過ぎた。頼朝はこれを聞いて「礼は老少を論ずべからず、且つまたその仁に依るべき事か。就中金剛が如きは、汝等が傍輩に准うべからざる事なり」と怒ったという。「若公」(元服前の泰時)は「そんな事は無く、重行はちゃんと下馬しました」と庇ったので頼朝は感心して、いつも持っていた「御劔」を「金剛公」(元服前の泰時)に与えたというのである。ただしその露骨な顕彰は編纂者が筆を舐めたものではなく、北条氏周辺に伝わる伝承を編纂者が編集しただけであろうが。

そして更に進めて、「東鑑の一書は、泰時時頼等の権勢盛んなるときの事にて、追々書集めたるようなり。」としている。これは実証的な近代歴史学が始まった明治以降の研究と比べても、星野恒を飛び越えて原勝郎の段階まで進んでいる。その主張に極めて近い。

近藤守重

近藤重蔵、近藤正斎とも。千島列島から北海道までを探検したことの方が有名で、 エトロフ島の開発に尽力し 「大日本恵土呂府」という標注を建てた人物であるが、それより前の1808年(文化5)2月に徳川幕府の書物奉行となり、『右文故事』『御本日記続録』を著す。『御本日記続録』の中で、いわゆる北条本とそれによる古活字本、更にその他の写本について説明をし、「実に禎祥の典籍にして武家の殷鑒(いんかん:手本)と為べきなり」とする。そして『参考太平記』のように「武家の制度と武器の制作より、諸家の家譜に連繋するを挙げ、地名の沿革を考正し、別に論弁を作て其事の始末を究明せんと欲するのみ」と記したが、その後大阪町奉行に転任したため実現はしなかった。

『御本日記続録』は非常に良くしられた文献であり、家康収集による『吾妻鏡』が北条本と言われるのはこの近藤守重が書いた由来からであると思われる。八代国治もそう思っていた。それを違うんじゃないかと活字にしたのは1970年代も後半の益田宗からかもしれない。

また、江戸開幕以前の文献に見える『吾妻鏡』の記述について紹介したことは先に見た通りである。そして、江戸時代の俗説に関しては、「老談一言集に東鑑の頼朝死去の所をば、大神君(家康)仰せに名将の疵に成る事をば後世につたえぬにしかじと とりて破て御捨被成候よしとて脱したりとあり。然れども応永写本にも頼朝卒去の一条なければ俗説信ずるに足らず」とする。「俗説信ずるに足らず」とする論拠は明快である。江戸幕府書物奉行の近藤守重がその存在すら知らなかった吉川本、毛利本でももちろん頼朝時代の最後の3年は無い。

尚近藤守重の言う「応永写本」とは塙保己一(はなわ ほきのいち)の和学講談所温古堂に当時所蔵されていた、目録の終わりに「応永11年甲申(1404年)8月25日金沢文庫御本書之」と見えるものであり、八代国治が、その当時の所有者の名から「黒川本」と呼ばれているものである。

それらの近藤守重の記述から、当時の支配者層が『吾妻鏡』に何を見ようとしていたのかが解る。それは武家政権の手本であり、武家の制度であり、そして諸家の系譜である。

尚、高桑駒吉の『吾妻鏡集解1』に「御本日記続録抄」が収録されている。

「旅宿問答」:武蔵別府の彦右衛という大夫が米山寺参詣の途中で出会った宿の主人や同宿者との問答式の雑談書。『続群書類従』33上 雑部 に収録。ただ、喜多村信節著「嬉遊笑覧」には「『旅宿問答』(これは、ある神職の大夫と天台宗の僧と問答の書、永正四年(1507年)にしるしたりとぞ)」とあって永禄4年(1561年)のものとは別? Wikipediaの保元物語には「「旅宿問答」は伊勢貞丈の『安斎随筆』に引用されているもので、現存はしていない」とあり、「旅宿問答」はいくつもあるようである。

宮地仲枝 

宮地仲枝(1768-1841年)は江戸時代後期の土佐の国学者で、山奉行になったこともある。著書に『山内家年代記』『彝寛公遺事』等がある。「東鑑の考」を著すが、世に出したものではなく同僚(上司?)の寺村主殿成相に送ったもののようである。

その「東鑑の考」には「東鑑は鎌倉草創のそのかみより、史官の記せる書にはあるべからず、北条家の盛なる頃にて、むかしを尋ね記したるかの家の記録なるべしと思うことあまたあり」と6点を指摘している。具体的には5点目には1201年(建仁元年)10月6日条の記述「江馬太郎殿、令下向北条給云々、去春庶民粮乏云々、且喜悦、且涕泣退出。皆合手願御子孫繁榮」を紹介して、「此文などかの家の記録とあらずとせんや」とする。

その条がどういう話しなのか、原文と読み下し文をあげておく。

江馬太郎殿、昨日下著豆州北條給。當所去年依少損亡、去春庶民等粮乏、盡失耕作計之間、捧數十人連署状、給出舉米五十石、仍返上期、爲今年秋之處、去月大風之後、國郡大損亡、不堪飢之族、已以欲餓死故、負累件米之輩、兼怖譴責、插逐電思之由、令聞及給之間、爲救民愁、所被揚鞭也。今日召聚彼數十人負人等、於其眼前、被焼弃證文、年雖屬豐稔、不可有糺返沙汰之由、直被仰含、剰賜飯酒、并人別一斗米各且喜悦、且涕泣退出。皆合手願御子孫繁榮云々。

江間太郎殿、昨日豆州北條に下着し給う。当所は去年少しき損亡によって、去春庶民等粮乏しく、央ば耕作の計を失うの間、数十人連署の状を捧げ、出挙米五十石を給う。よって返上の期は今年の秋たるのところ、去月大風の後、国郡大いに損亡し。飢えに堪えざるの族(やから)すでに以て餓死せんと欲するが故に、件の米を負い累ぬるの輩、兼ねて譴責を怖れ逐電の思いを挿むの由、聞き及ばしめ給うの間、民の愁いを救わんが為に鞭を揚げらるる所なり。今日彼の数十人の負人等を召し聚め、その眼前に於いて證文を焼き棄てられをはんぬ。豊稔に属すと雖も糺返の沙汰有るべからざるの由、直に仰せ含められ、あまりさへ飯酒並びに人別に一斗米を賜う。各々且つは喜悦し、且つは涕泣(ていきゅう)して退出す。皆手を合わせて御子孫繁栄を願うと云々。飯酒の如き事は、兼日に沙汰人用意せらるる所なり。

もうひとつは頼家将軍記に当たる第17巻1203年(建仁3)9月5日条の全文を引用して「これらの法条家の記録にあらずとせんや、是六」とする。ここもその9月5日条を読み下し文であげておく。

将軍家(頼家)御病痾少減し、なまじいに以て壽算を保ち給う。而るに若君並びに能員滅亡の事を聞かしめ給ひ、その欝陶(うつとう)に堪えず。遠州(時政)を誅すべき由、密々に和田左衛門尉義盛及び新田四郎忠常等に仰せらる。堀籐次親家、御使として御書を持ち向かうと雖も、義盛思慮を深うして、彼の御書を以て遠州に献ず。仍って親家を虜へ、工藤小次郎行光をしてこれを誅せしむ。将軍家いよいよ御心労と云々。

もちろん八代国治は我が意を得たりと。「一大卓見というべし、慶長以来吾妻鏡を研究せるもの少なからずと雖ども、日記にあらずして後世の追記としたるものは大塚嘉樹と仲枝とのみなり」、と大絶賛である。

江戸時代においてすらそういう研究がなされていたのに星野恒は何を読んでいたんだろうか、との疑問もおきようが、しかしそれは無理な話である。大塚嘉樹の『東鑑別注』は江戸時代はおろか明治時代においてすら世に出ることはなく、草稿本のまま「関根博士」(国文学者の関根正直か)に伝わり、それを八代国治が見せてもらって大正2年の『吾妻鏡の研究』で紹介したのが世に出た最初である。そしてこの宮地仲枝の「東鑑の考」も、江戸から遠く離れた土佐に埋もれていた。

2008.11.18-26、2009.1.30、3.30